天つみ空に・其の八~恋月夜~【最終章】
―これまであったことも含めて、そんなすべてをひっくるめて、お逸そのものに丸ごと惚れてるんだ。
これ以上の言葉があっただろうか。
お逸の白い頬をひとすじの涙が糸を引いて流れ落ちた。
この男に付いてきて良かった、この男を好きになって良かったと、心から思った瞬間だった。
辺りは一面の静寂が満ちている。
そのひそやかな静けさの中、ただ真吉が櫓を動かす音だけが低く響いていた。
真吉とお逸は今、大川に浮かぶ舟の上にいた。吉原を出てもう何刻になるだろうか。
自害して死にきれず、意識を取り戻したお逸に、あの日、真吉は告げた。
―死ぬくらいなら、いっそのこと逃げよう。
もちろん、初め、お逸は反対した。
仮に二人で逃げても、すぐに追っ手がかかるだろう。無事に逃げ切れる目算の方が少なかった。捕まれば、お逸は脚抜けした女郎として酷い折檻を受け、真吉の方も当然ながら、ただでは済まない。真吉をそんな危険に逸晒すわけにはゆかなかった。
だが、真吉は根気よくお逸を説得した。
このまま花乃屋に居続ければ、お逸は遠からず伊勢屋清五郎に落籍されることになる。そうなれば、今度こそ二人は引き離されてしまい、二度と逢えなくなる。そうなる前に、一か八か二人で逃げよう―、真吉はお逸に真摯なまなざしでそう言った。
そして、結局、お逸は悩んだ末、真吉に従った。確かにこのままでは、近い中にお逸は清五郎に身請けされるだろう。真吉とは離れ離れになり、あの男に夜毎、嬲り続けられる。それは、お逸にとって死ぬよりも辛いことだった。
そんな辛い想いをするよりは、思い切って逃げてみよう。お逸もまた真吉と同様、わずかな可能性に賭けてみようと思ったのだ。
おしがにだけは別れを告げたいと思ったけれど、思いとどまった。おしがに事を打ち明ければ、やり手という立場上、おしがはお逸の脚抜けを止めなければならなくなる。万が一、見逃せば、おしが自身が甚佐からどのような罰や懲らしめを受けるか判らない。それでは、かえって迷惑がかかってしまう。
おしがへの感謝の念は尽きない。
もしかしたら。
おしがは、お逸が真吉と脚抜けすることを予想していたのではないか。何故なら、意識を取り戻したお逸に向けたおしがのあの科白、
―お前に逢いたいっていう人が外で待ってる。その人とよおく話してごらんな。これからのことは、それから考えれば良いさ。
あの何げないひと言は、今から思えば、十分意味ありげなものだったからだ。
おしがは多分、お逸と真吉がどのような話しをし、どんな結論に達するか判っていた。判っていながら、真吉をお逸に引き合わせ、すべて見て見ぬふりを通したのだ。
―おしがさん、本当に色々とありがとうごさいます。
お逸は心の中でおしがに心からの礼を述べた。
お逸は真吉がどこからともなく調達してきた男物の古着に着替え、男に身をやつし、夜になるのを待って真吉と共に廓を出た。
お逸が意識を取り戻して数日後のことだ。
この頃には、お逸の傷は殆ど痛みはなくなっていた。
あれから清五郎は何度か見舞いに来たが、お逸は容態が芳しくないと言い訳して、おしがに応対を任せて逢わなかった。
四郎兵衛会所(吉原に出入りする人々を監視する場所、女性の場合、娼妓でなくとも、切手(きりて)と呼ばれる通行証を必ずここで提示しなければ外には出られない。役人などが常時詰めている)の前を通るときは流石に緊張したものの、何とかやり過ごし、無事、大門を抜けることができた。
後は土手を小走りに走り、見返り柳を過ぎ、江戸の町に出た。深川で真吉が前もって用意していた小舟に乗り、船上の人となった。
舟に乗ってかれこれ一刻、今頃、廓では大騒動になっているだろうと思えば、やはり冷や汗がじっとりと滲んでくるようだ。
だが、不安に怯えるお逸に、真吉は諄々と言って聞かせた。
恐らくは甚佐が真吉とお逸に向けて追っ手を放つ可能性は少ないだろうというのが、真吉の目算だった。
―甚佐の旦那はもう伊勢屋からふんだくれるだけのものはふんだくってる。近い中に落籍されるお前が今更姿を消しちまっったからといって、おたおたしやしねえさ。伊勢屋の旦那にしたって、それで金を返せなんてケチなことは大店の主人の名にかけて言えねえだろうからな。
つまり、真吉は、そうなる可能性が高いことを見越して、脚抜けを企てたのだともいえる。こうして見ると、やはり、真吉は怖ろしいほど頭の切れる男だった。
恐らくは、あの清五郎よりも真吉の方が聡いのではないか。自分と駆け落ちしたことにより、真吉の商人としての未来をむざと奪ったことが、今更ながらに悔やまれる。だが、今、ここでそれを嘆いたとて、詮無いことだ。
お逸はお逸なりのやり方で、これから真吉のその心と誠に報いてゆけば良い。
お逸がこれから真吉のためにできることは幾らでもあるはずだ。
舟に乗って漸くひと心地ついたお逸がふと見上げた夜空には、満ちた月が煌々と輝いている。
櫓を動かし、巧みに舟を操る真吉が呟いた。
「久方の天つみ空に照る月の 失せむ日にこそわが恋止まぬ」
お逸がハッとして、真吉を見る。
「いつか、お逸が話してくれただろう? お前のおとっつぁんがお袋さんに求愛した時、この歌を贈ったって」
清かな光が川の面を銀色に染める。
川の流れる音、時折聞こえる水しぶき、そして、絶えず聞こえる櫓の音。それら以外、音のない静寂が二人の乗る舟をすっぽりと呑み込んでいる。
真吉がやや面映ゆそうに言った。
「まだちゃんと言ってなかったから、今、この場ではっきり言う。お逸、俺はお前が好きだ。俺の女房になてくれねえか」
―待ちに待った言葉だった。一体、どれだけこの言葉を耳にする日を夢見たことだろう。
お逸は真吉の言葉に何も言えなくて、ただコクコクと幾度も頷く。
お逸がかつて随明寺の境内で話した父の想い出話をちゃんと憶えていた男の優しさが心に滲みる。十六年前、お逸の父新左衛門が母お駒にしたのと同じように、お逸もまた今夜、惚れた男から大好きな歌を贈られた。その歓びがお逸の心をゆっくりと満たしてゆく。
幸せを噛みしめるお逸の頬を涙がゆっくりとつたい落ちていった。
満月が二人のゆく方を照らしている。
二人を乗せた舟は銀色に光る川をすべるように進み、やがて小さくなり見えなくなった。
(完)
作品名:天つみ空に・其の八~恋月夜~【最終章】 作家名:東 めぐみ