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天つみ空に・其の八~恋月夜~【最終章】

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二階へと続く階段を上りるのにも一苦労だ。一段、一段、自分の身体を自分で持ち上げるように進んでゆかねばならない。言ってみれば、身体全体を無理に引きずって歩いているような感覚だ。我が身の身体でありながら、思うように動かせないのがもどかしく、口惜しかった。何しろ少し動かす度に、悲鳴を上げたくなるような痛みが腰から下腹部にかけて走るのだ。階段を上るのも厠に行くのも常よりは時間がかかるし、大変だった。
 数段めまでようよう辿り着いた時、ふいに背後から声が追いかけてきた。
「―お逸」
 その声に、お逸は背中に氷塊を入れられたような心地がした。あれほど逢いたいと願っていたのに、今はいちばん逢いたくない相手だった。
 お逸は凍り付いたように、その場から動けない。振り向いて真吉の貌を見たいと思う傍で、もう顔を見られたくないという想いが渦巻く。
 お逸が迷っている間に、真吉は素早く近付いてきた。
 次の瞬間、お逸の小さな身体は、ふわりと抱き上げられていた。
 お逸は真吉の逞しい腕の中で、身を固くする。
「大丈夫か? 部屋まで送っていこう」
 控えめに問われ、弾かれたように顔を上げた。視線と視線が切なく絡み合う。
 お逸はたまらず、顔を背けた。
 清五郎に陵辱の限りを尽くされた翌朝、真吉と顔を合わせることになるとは皮肉な話だった。
「どうして」
 お逸は言いかけて、言葉を呑み込んだ。
 涙が溢れそうになり、慌てて眼をまたたかせる。
「どうして、助けにきてくれなかったの?」
 お逸は真吉と視線を合わせぬまま、うつむいて言った。
「私は待ってたのに。真吉さんが助けにきてくれるのをずっと待ってたのに」
 襲いかかってくる清五郎に必死で抗いながら、真吉に心の中で助けを求めたのに。
 なのに、真吉は来てくれなかった。
 その言葉は、真吉の心を射貫いたようだった。刹那、真吉の端整な貌が歪んだ。
「済まねえ。―知らなかったんだ。俺は昨夜、旦那の伴で出かけていた。お前がまさか、よりにもよって、昨夜、娼妓として客を取らされるなんざア、考えてもみなかった。松風太夫の部屋に移ったと聞いて、おかしいな、旦那も妙なことをするとは訝しんではいたんだ。もしかしたら、お前を俄か娼妓に仕立て上げるつもりなんじゃねえかとも思った。だが、こんなに急に事を運ぶとは―、流石に俺も旦那の目論みが読めなかった」
 恐らく、甚佐はわざと昨夜、真吉を外に連れ出したのだろう。お逸に客を取らせる夜、真吉が廓にいて、万が一、話を聞きつけることを怖れたに違いない。
「今更、何を言っても、言い訳にしかならねえことはよく判っている。結局、俺はお前を守ってやれなかった。しかも、お前の敵娼が伊勢屋の旦那だったとは俺も―」
「止めて!」
 お逸は悲鳴のような声で叫んだ。
「それ以上、言わないで。―お願いだから」
 お逸の眼に涙が溢れる。
 真吉がハッと胸を衝かれたような表情をした。
「お逸、たとえ何があろうと、お前は何も変わっちゃいねえ。お前は、俺の知ってる優しくて素直なお逸だぞ?」
 真吉の言葉は耳の奥に滲むようにひろがった。お逸の白い頬のうえを、静かに涙がひろがってゆく。
 真吉の幾億もの夜を集めたような漆黒の瞳が軽く見開かれた。
「お願いだ、泣かないでくれ。俺は、お前の歓んでいる顔や笑っている顔を見ているのが好きなんだ。お前が笑っていれば、俺も嬉しいし、お前がこんな風に哀しんでいれば、俺までどうしたら良いか判らなくなっちまう」
 真吉の声音には心からの労りがこもっている。それは、お逸にもすぐに察せられた。だが、そのときのお逸の心はあまりにも傷ついていた。清五郎にとことんまで嬲られたことで、お逸は身体だけでなく、心まで深く傷ついていたのだ。
 お逸は泣きながら真吉を見つめた。
「何でそんなことが言えるの? あんなことがあって、笑えるわけなんてないじゃない。怖かった。幾ら嫌だって言っても、あの男は許してくれなかった。助けてって言っても、誰も助けてくれなかった。死んだ方がマシだって、何回思ったか判らない。そんな酷い目に遭わされて、それでも、真吉さんは私に何もなかったような顔で呑気に笑っていろって言うの?」
「お逸、俺の言い方が悪かったのなら、誤る。俺は何もそんなつもりで言ったんじゃねえ。ただ、お前に少しでも元気を出して欲しくて―」
 その真吉の言葉に覆い被せるように、お逸は叫んだ。
「私は真吉さんの気持ちが判らない」
「俺の気持ちが判らない?」
 真吉が思いもかけぬことを聞いたという風に問い返す。
 お逸の眼から大粒の涙がとめどなくしたたり落ちる。
「だって、私は一度も真吉さんから好きだって言って貰ったことがないのよ? 私はこんなにも真吉さんが大好きで、いつも逢いたいって、真吉さんのことばかり考えるのに、真吉さんはどうなの? 少しは私のことを考えいてくれるの? 私を好きだと思ってるの!?」
 最後の方は涙混じりの声になった。
 真吉が眼を見開いたまま、お逸を見つめている。
 お逸の胸を底知れぬ絶望が押し潰した。
 真吉は何も応えてはくれない。
 ただひと言、〝好きだ〟と応えてくれさえすれば良いのに、お逸はたったそれだけで満足できるというのに、真吉はけしてお逸の望む言葉はくれようとしない。
 ああ、そうなのか。やはり、そうだったのか。お逸の胸を空虚なものがよぎった。
「もう、私のことは忘れて下さい」
 お逸は真吉をこんなに好きなのに、大好きなのに、真吉はただ黙り込んでお逸を見つめているだけだ。
 お逸の眼尻から、つうっと涙が流れ落ちる。
 心にもない科白を口に乗せ、心が引き裂かれ、血を流すようだ。その心の痛みは、清五郎によって味合わされた身体の痛みよりもよほど烈しくお逸を苛む。
「お逸、お前は一体、自分が何を言ってるか、判っているのか?」
 真吉の声が、わずかに震えている。
「私はもう穢れてしまった身だもの。こんな身体では、あなたには相応しくない」
「馬鹿ッ。自分のことをそんな風に貶めるのは止めろ。俺はそんなことは一切気にしねえ。たとえ何があろうと、お前はお前だって今し方も言ったばかりじゃねえか」
 真吉が噛みつくように言う。感情の赴くまま、強い口調で語りかけた真吉は唐突に言葉を切った。
 お逸は淡く微笑した。
「それに、私はもう、こんな根無し草のような暮らしはご免なの。世間から隠れるようにこそこそして生きてゆくのなんて、辟易してたの。その点、娼妓としてここにいれば、客を取りさえすれば、楽に生きてゆけるわ。あくせく働く必要もない。綺麗な着物を着て、たくさん客を取って良い稼ぎをすれば、ご馳走だって食べさせて貰える」
「お逸、本気で言ってるのか? 心からそう思ってるのか!?」
―たくさん客を取って良い稼ぎをすれば―。 たくさんの客を取ることは、つまりは顔どころか名前さえ知らぬ男たちに自ら身体をひらき、抱かれるということなのだ。そんなこと、考えだだけで、おぞましさに死んでしまった方が良いと思う。
 それでも、お逸は敢えて心とは反対のことを言った。
 そう、真吉を想っているから、好きだからこそ、身を退くのだ。それに、真吉はあくまでもお逸に好きだとは告げてはくれない。