金木犀の薫り
教師の顔
「駅まで送る」
女の車で駅に行った。座席に座ると川田茂に戻った。
大学受験を前にした高校3年の担任である。この貴重な時間を僕は休むことは出来ない。
女はもう1日いて欲しいと言った。
僕は自分を隠さなくてはいけないと感じた。教師が逢ったばかりの女性の家に泊るなんて非常識である。
僕は非常識であっても、また戻って見ようと考えていた。
僕の顔を舐める感触。
僕の手に残っているあたたかな柔らかな感触。
僕はゴンなのか女なのか知りたかった。
僕の飼っていた犬は僕に服従した。
女は何もかも僕の事を知っているのではないかと感じた。
僕が今追い続けているもの。初恋。
それは後悔を引きずっているだけなのかもしれない。
僕の手に残っているこのぬくもりの曖昧さが同じものだと感じた。
悪い女であれば、僕は脅される。
犬の様に従順な女であれば、あるいは計算高い女であれば・・・
いやもっと単純かもしれない。
僕は美術を教えている。色は感性の違いが出る。なかなか教える事は出来ない。
基本から応用になる。
もう一日居てと言ったのは何を意味していたのだろうか。
僕を観察するためかもしれない。僕にはとても不思議な女であった。
そして興味ある女でもあった。
芸大を希望している女子生徒に絵を描かせている。
筑波であれば指定校推薦で楽に行ける生徒である。しかし彼女は頑として芸大を希望している。
僕は運もあり芸大で学ぶことが出来た。夢もあった。
だがたどりついたのは教師である。まだこれからという思いもない訳ではない。
抽象画から具象画に切り替えてしまった。
母の病気の治療費欲しさもあった。
そんな自分の過去を考え、彼女には希望を叶えさせてやりたいと思う。
絵を描いている生徒と女が交わるように見える。
美術室の放課後生徒は五人ほどである。
僕はほとんど無意識に生徒の後ろに立った。
昭和初期の古いミシンを描かせている。八分どうり出来ているが、僕には何か足りなく観えた。
生徒の髪から汗の臭いを感じた。犬を飼ってからは臭い、特に嫌な臭いには鈍感になっていたが、生徒からははっきりと汗を感じた。その黒髪のしっとりとした重さ、僕はそうだと感じた。
ミシンに年代の重さを感じないのだ。
黒いミシンは実にうまく描かれている。シンガーのロゴも年代を感じるはずだ。
僕は針を刺し、糸を通そうと考えた。
家庭科の教師に電話で依頼した。
足踏み式なので使えるそうだ。
1本の白い糸を描くことで絵に命が入ったと僕は感じた。
それほど暑くはないのに、彼女の汗はなんだ。
夢中。没頭しているからなのだろう。
そうか、今朝目を覚ました時、僕も汗をかいていたような気がした。
ゴンが舐めたと思っていたが、体も何かべたついていた。
僕は何かに夢中になっていたのだろうか。