魔王
魔界では魔王に敵う者は、抗う人間しかいない。それを、勇者と呼ぶ。
長い間をかけて純血を重ねた血は濃くなり、いつしか魔王と勇者との力の差は歴然とも言えなくなった。
若く聡明な前魔王の子は、僅か二十歳で魔王に就いた。
言葉を掛けられるものは賛美ばかりで、争うと言う事がない。それはつまり、抑えつけられるような無関心の中で、成長など出来る筈もないのだ。
若い魔王は、日に日に勇者に対しての憧れを募らせる。
さながら、自身が囚われの身であり、勇者が救護に来てくれる。そんな幻想さえ抱いた。
しかしそんな魔王の懸念も空しく、魔王が王座につき更に半世紀が過ぎた。
その間、勇者が魔王の城へたどり着けたのは六人。一階で力尽きたのは三人。二階で力尽きたのは一人。三階で力尽きたのは二人。魔王の間は、四階の最奥にある。
勇者への羨望は、益々募った。
側近の魔族と共に、魔王は対策を練る。
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実に滑稽だ。
憎きその脚は天上を仰ぎ、頭上へと達する。防ぐことも抗うことも出来なかった。
伸ばした腕の先には、転がる我が得物。
五キロを超すその大剣は、魔剣でもあればよかっただろうが、なんの変哲もないただの長物であるがゆえに、所有者の想いむなしく自動的に手元に戻ることはなかった。
「実に滑稽だ。」
二度目は口に出した。
男は口の端を釣り上げて笑い、頬に当たる冷たい床の感触に感謝した。これで頭が冷える。
「八年ぶりだね。」
旧友に会えたような口ぶりで言う。脚を男の頭から離し、傍らに座った。
「勇者がここまで辿りついたのは、八年ぶりだよ。嬉しい、会いたかった。」
意外にも柔らかな物腰のそれは、勇者の来訪を歓迎すると言う。自分を滅ぼす異端の者であるのに、なんという屈辱か。冷静になりかけた頭に、湯でもかけられた気分だ。
今すぐこいつの胸倉を掴んでやりたい。体格の差は歴然だ。地を踏みしめ、力を込め、昔年の恨みを、今、この拳に。
現実とはかくも無残であり、勢いや想いだけでは届かないものもあるのだと、男は痛感した。
力そのものに覚えがない訳ではない。大袈裟な話だとしても、最奥まで辿りついたのは自分で八年目だと言っていた。
なのに届かない。力も、想いも、叫びも、何ひとつ届かない。
せめてその憎き姿だけでも目に焼き付けておきたいと、男は渾身の力を振り絞りやっとの思いで自由になった頭をあげた。
暗闇に近い紺色の長髪、対し真っ白の服色、目は金、痩躯、そして。
魔王の証である、二本の角。
温度のない笑顔を浮かべ、魔王は、男へ手を伸ばした。
魔王の指が男の頬に触れる。見た目よりも遥かに冷たい温度に、男は目を細めた。
「名前、」
りん、と、鈴のような声音が冷えた部屋に響いた。
「名前、教えてよ。勇者だけじゃ感慨が湧かない。」
男は目を見開く。魔族が人間に名を訪ねるなど、用途は多くない。早合点した男は、しかし観念したようにその口を開いた。
「ロード、」
低く、噛みしめるように名を紡ぐ。魔王が、嗤った気がした。
「ロード。」
屈託なく笑う魔王に、ロードは震える。
ああ、自分はもう、魔王の手で、亡き者にされてしまうのだ。無邪気な氷は、この体温を根こそぎ奪い、朽ちらせてしまうのだ。
嫌な汗が背を撫でる。気分が悪い。震えが治まらない。
差し出された指の冷たい感触だけが、ロードに理解出来る唯一の存在だった。
魔王はいつの間にか仰向けにされていたロードの上へ跨っていた。魔王の指が、頬が、脚が、身体の全てにまとわりつく。
冷え切った体温がロードの意に反し容赦なく熱を求め、魔王に心地よさを求める。
冷えたと思っていたのは自分だけのようで、魔王の体温というのも存在していた。
ロードの中にあるのは恐怖。剛神と恐れられた現役軍人のロードも、人外ならざる魔王の前では赤子同然と言っても過言ではなかった。
魔王はと言えば猫のように丸まり、ロードの上から動かない。いっそこのまま一突きしてくれれば、そのまま逝けるのに。そんな物騒なことを考えてしまった。
「魔王、貴様なにが目当てだ。」
痺れを切らしたロードは、動く気配のない腹の上の魔王へ問う。
顎下で魔王が身動ぎした。
「やるならやれ、」
「やるってなにを。」
この期に及んでまだ白を切るつもりか。怒鳴りたいがその気力はない。精一杯の気迫で答えた。
「殺すのはひと思いにしろと言っている。」
八年ぶりの勇者の願いだ、それくらい叶えてくれてもいいじゃないか。ロードは目を伏せ魔王の言葉を待つ。
鈴の声音の返事は、勇者たるロードに二度目の絶望を与えた。
「どうして殺すの。勿体ないじゃない。」
死刑宣告の方が、幾分かマシだ。ロードは頭を抱えた。
「今は殺すつもりがないということか、」
「だからぁ殺さないって、なんでそうなるかなぁ。」
勇者を倒さない魔王だと?聞いたことがない。
疑問符が解けないロードの頬に、魔王は自分の頬を重ねた。
「大事な大事な勇者を、粗末に扱う訳ないじゃない…会いたかったよ、ロード。会いに来てくれて嬉しい。」
まるで長い間遠い場所に離れ離れになった恋人が、わざわざ会いに来てくれたような口調で、魔王は事実愛おしそうにロードへ頬ずりした。
「憎くないのか、俺が。」
魔王は否定するだろう。虫が息も絶え絶えに虚勢を張ったところで、なるほど憎しみは湧かない。
同時に、自分はそんな矮小な存在なのだと実感した。
否、自分が弱いのではない。魔王が、人外ならざるこの魔王が、強すぎるのだ。桁が計算出来ないほどに。
「どうして自分に会いに来た勇者を憎むの。愛しいよ、僕だけのロード。」
慈しむように目を細め、不愉快なほど柔和にロードの身体を抱き締める。
魔王に嘘偽りはない。だからこそ、先刻までの自分の行いに歯痒さが募るのだ。
魔王が勇者を歓迎することなど、あってはならない。
そうでなくては、困るのだ。
「俺はお前を殺すぞ。」
魔王は表情を崩さずに、恍惚とした表情で答える。
「それこそ本望だ…。」
愚考や自虐ではない。魔王の心からの本音だ。心理学者などではないが、ロードにもそれくらいは分かる。
つまり、殺せるものなら殺してみろと言っているのだ、この魔王は。
魔王に敵う者は、抗う人間しかいない。それを、勇者と呼ぶ。
長い間をかけて純血を重ねた血は濃くなり、いつしか魔王と勇者との力の差は歴然とも言えなくなった。
魔界において、魔王に言葉を掛けられるものは賛美ばかりで、争うと言う事がない。それはつまり、抑えつけられるような無関心の中で、成長など出来る筈もないのだ。
魔王は、日に日に勇者に対しての憧れを募らせる。
さながら、自身が囚われの身であり、勇者が救護に来てくれる。そんな幻想さえ、抱いた。
「クソッ…魔王、貴様、」