白々しくはなく。
「東日本大震災被災者のみなさんにはお見舞い申し上げます。」この言葉は震災後、多くのウェブサイトに掲載され、政治家や企業のサイトでは常套句のように使われた言葉だ。
同じように当時のテレビでは連日「頑張ろう日本」、「絆」とうい言葉で溢れかえっていた。きっとこの言葉に悪意はないだろう、それはいい。微塵も善意が込められていないわけではないからだ。でも、被災地の人たちが聞いて、それをどう見るんだろうか。ぼくらが想像しているように喜んで聞いているのだろうか。
極限の恐怖に追い込まれ、仮設住宅では厳しい夏を過ごし、家族も家も、長年耕してきた田畑や海でのノウハウも失った人々は今でもそこにいるというのに、ぼくたちの想像力は欠けていないのだろうか。
2時間もすれば仙台から首都圏へは十分に帰ることができる。「可哀そう」だと憐れむことが出来るのは、それに似た環境で、安全な場所が担保できるからではなのだろうか。ぼくはいまだ、諸手を挙げて善意が届いたと、賞賛するこが出来ない。何の責任もない薄っぺらさを感じるからだ。
言うだけなら、誰でも言える。
ぼくはそうした安全な場所から並べられた、きれごとのような言葉が、今、いたずらに氾濫してる気がしてならない。
どうかきれいごとを並べないで欲しい。おかしな罪悪感を振り払いたいがために、無責任な言葉を撒き散らさないで欲しい。
この瞬間もそこで復興を目指し、賢明にそこで暮らす方たちが立ち上がろうと前を向く中で、復興特需にのっかって利益をあげたい、復興を煽ってPRをしたいだけの企業の無責任ともとれる支援を、それだとわかっていても「復興支援」という免罪符を掲げられては、彼らはなにも言い返せないのだ。
善意は押し売りであってはならない。
まして安全な場所に住み、コンビニでありったけのカップラーメンや弁当を買い占めた人間が、その釣銭を募金箱に放り込んで「絆」と叫ぶことが、いま本当に重要なことなのかと、この旅でぼくは深く思った。
被災地の復興はほんの少し始まったに過ぎず、報道されてはいないが、被災地では今でも発見される人がいるのが事実だ。
必要なのはこんな時ばかり善人ぶって、きれいな言葉を派手に連呼することではない。現地に耳を傾け、気持ちとして寄り添い、出来ることをするという小さな行動、小さなチカラの積み重ねだけなのだ。
宮城の野菜は瑞々しく美しく、本当に美味しいかった。眼下をかける緑豊かな山や海は、今もたくましく蘇ろうとしている。この見事な土地をもう一度復活させよう頑張っているのは、歯をくいしばり、普通に生活をおくる現地の"タフな人"たちなのだ。
安全なところにいたぼくたちは、この震災に対して主観的に語る資格はない、だからこそしっかりと客観視をして、出来る範囲のことを考えたい。誰も彼らの代弁などできるものではない、大切なのは、そこで白々しい言葉をかけるのではなく、この震災と向き合うことだということを、ぼくは忘れないようにしたい。
文 (そうま・けんじ)