エイユウの話 ~夏~
「ラジィ、早く行こう」
わずかに震えていた声にラジィはちっとも気付かずに、「大丈夫よ」と根拠の無い、ほぼ反射に近い返事をした。光が洩れるドアの隙間に、彼女は片目を当てる。と、彼女の動きが止まった。泣き出すでも逃げ出すでもなくただ固まるだけの彼女に、キースは目を丸くする。
彼女が覗いているところの上の方から、同じように覗いてみるとその原因がわかった。
あの笑わないことで有名な流の導師が、驚くほど優しい瞳で、柔らかく微笑んでいたのだ。見つめる先にいるのは、照れくさそうに笑う保険医で、彼女の左の薬指には赤い宝石のはまった指輪が見えた。赤は愛情の象徴とされ、それをあしらった指輪と言うのは、薬指にはまっていなくとも婚約指輪しか存在しない。流の導師が持っている赤い指輪入れは、それ専用の物だ。もちろんわずかな希望も捨てないラジィがこれだけでは納得しないだろう。普段の彼女なら、「保険医が婚約し、それを導師様に見せている間に指輪入れを落としてしまい、それを優しい導師様が拾ったところ」とでも言うところだ。たとえそれが、多少強引な解釈の仕方だと自覚していても。しかし彼女はそんな台詞を一言も漏らすことなく固まっている。と言うことは。
彼女は、流の導師が保険医の薬指に指輪をはめているところを見てしまったのだ。それも、あの箱を服の中から取り出す件から。
泣くことも話すことも出来ないラジィを見て、キースは思わず彼女の腕を掴んで、でたらめに走り出していた。何処に向かっているのか解らなくなり、気付くといつもの中庭にいる。灰色だった空はどんどん黒くなり、もう雨が降るまで数分もないだろう。授業開始のチャイムが鳴り、二人の遅刻が決定した。
ラジィはまだ呆然とした顔で、斜め下をずっと見据えていた。キースは慌てて彼女の名前を呼んだ。何度も呼んでいるのに、彼女が正気になる気配はなく、彼はどんどん必死になって呼び続ける。
「ラジィ!ラジィ・・・ッ!」
「・・・きーす」
ゆっくりと顔を上げ、彼女の視界にキースが入ると、その灰色の瞳から涙が溢れだした。キースよりずっと細い体が震え、それを止めるように彼女は体を自分で抱える。キースには、いまここで彼女を抱擁する勇気はなかった。
作品名:エイユウの話 ~夏~ 作家名:神田 諷