初音ミクは悲劇のヒロインになる
・起こりえる悲劇とは
世界に溢れる音楽が、スピーカーから流れていること自体は、決して悪いことではない。先ほども述べたように、既にその場で生の演奏を聞くのと変わらないぐらいに技術は進歩しているし、それが手軽に聴けることはとても大切なことだ。聴くことが出来なければ、音楽を作っても意味が無い。*ここで言う音楽は「耳で聴くことが出来る」という意味での音楽。
例えば100万人に同時に音楽を聴かせるとした場合、生の演奏だけでは、まず100万人が集客出来るホールを造らなければならない。そのホールで、全員がほぼ同じ音量や音質で聴けるようにするのも困難であろう。
それに対して、スピーカーを通せば、大掛かりな設備を作らなくても、例えばUSTで生演奏をすれば、その映像を100万人が同時に、環境を整えればほぼ同じ音量、音質で聴くことが出来るのだ。
つまり「スピーカーから流れる音楽」が普及し、それを聴くこと自体は悪いことでは無いのだ。
では、何が問題なのか。
それが先ほど述べた「アーティストを含む、音楽全体の技術の低下」である。
ここでいう技術というのは、今述べたような録音や電子楽器等のことではなく、一つの曲の構成や理論としての技術、という意味である。
音楽を司る三大要素として「メロディ、ハーモニー、リズム」が挙げられるのは、今も昔も変わっていない。*これらを含まない音楽も存在するが、ここでは割愛する。
それらが現在我々が耳に通す音楽に含まれているのは当然だし、それぞれの要素が歴史的、理論的にも研究され続けているのも事実である。
それにも関わらず技術が低下している、と言うのは、まずこれが音楽全般に向けた言葉ではなく、ポピュラー音楽、その中でもJ-POPというジャンルに向けた言葉である、というと分かりやすくなるかもしれない。
J-POPのアーティストが技術的に低下している、といえば、賛同してくれる人は少し出てくるかもしれない。しかし、その理由を具体的に挙げるとなると、なかなか難しいことも事実だ。
私が思う技術の低下の理由として、まず「理論が整いすぎてしまった」ということが挙げられる。
技術は低下しているのに理論が整っている、というと矛盾して聞こえるかもしれないが、ここで言う理論というのは、音楽を作り上げる理論の中でも「いかに早く、安定したクオリティで作れるか」を突き詰めた理論のことである。
何故そのような生産的な理論が整ってしまったのかと言うのなら、答えは単純「音楽を庶民的な売り物にしてしまったから」である。
もちろん、ポピュラー音楽を現在作っている作曲家全員が、そのような理論だけで音楽を製作し、それに満足している、というのはヤボだろう。有名な音楽大学を出ている作曲家も大勢いるし、ポピュラー音楽以外の音楽に携わって作曲している人も多くいる。
では、この理論を使っているのは誰かと言えば、代表として挙げるのなら「レコード会社」そのものである。
ポピュラー音楽というジャンルの目的は、音楽という文化を、広く多彩に売り出すことだと私は思っている。もちろんレコード会社やレーベルによって、それは異なるかもしれないが、そうでない場合はポピュラー音楽以外のジャンル、もしくはそれらの要素を含んだポピュラー音楽、がほとんどでは無いだろうか。
一つの音楽を全国的に売る方法としては、CDに焼いて音源として売る、有線放送で流して知ってもらう、ライブに集客するなどといったことをするのが一般的だろう。*しかし今の時代、従来の売り方が少しずつ変わってきていることも事実である。
そうやって売っていくには、例えその音楽を作っている人間が一人だろうと、複数人のバンドだろうと関係なく、大勢の人間が携わることも誰でも分かることだろう。そのようにして商業音楽というものは成り立っているのだから。
しかし、そのように売っていく時に問題になってくるのは「どんな音楽が売れるのか」である。
先ほど似たようなことを述べたが「誰も聞かなければ音楽を売る意味がない」のである。
そうなると、一人でも多くの人に音楽を聴いてもらいたい、と思うのは当たり前の発想だ。だとしたら、年齢も出来るだけ関係なく、男女や生活関係も関係ない方がいい。その方が聴いてもらえる対象が増えるから。
けれど、ただ老若男女関係ない音楽が一つあっても、人々はすぐに聴き飽きてしまう。だから、誰でも聞ける音楽を沢山作り続けなければ音楽業界が廃れてしまう。
そのようにして産まれてしまったのが、「いかに早く、安定したクオリティで生産できるか」を追及した理論、である。
このような理論に則って製作されているのは、今の時代、音楽だけに限らない。何故ならデフレ等の影響によって、そういう時代が訪れてしまったからだ。
そしてまた、本来大衆向けであったそのような理論を真似て、誰でも製作、及び生産が出来る環境が整ってしまった。
そのような、個人でも世界に渡る文化を作り出せることは、歴史的にもやり遂げた人物は少ないだろうし、大変素晴らしいことであることは確かではある。
しかし、それ以上に「進化の止まった文化」が世の中に出回り、あたかもそれが文化として成り立ってしまうのは、いずれ悲劇を産むことになってしまう。
その悲劇とは「自己満足で終わってしまう文化」のことだ。
それはつまり、文化の停滞を意味し、停滞の次は文化の崩壊が訪れることになるだろう。
あなたは今、初音ミクを使った音楽を作って満足しているだろうか? それをネットやともだちに発表したか? けれど、誰一人もその曲を聴いてくれなかったら、どう思うか。 聴いてくれない理由が「俺(私も)同じような曲を作って、自分で聴いて満足しているから」だったら、どう思うか?
具体的な年数を挙げるとしたら、20年後だろうか。しかし理論的な意味での停滞は既に起こっている。このままそのような状態が続くとしたら、10年後、5年後にはもう起こるかもしれない。
作品名:初音ミクは悲劇のヒロインになる 作家名:みこと