初音ミクは悲劇のヒロインになる
4.悲劇を避けるには
・ 芸術としての音楽の見直し
ここまで、個人で楽曲を作ることを否定しているような内容を述べてきたが、私自身も個人で作曲する内の一人であると同時に、歴史的に見れば、こんなに作曲家が世界に溢れている時代というのもなかなか無いであろう。そんな時代を否定するのは、些か時代遅れのような、古い考えに固執しているように思える。
世界的な作曲家やアーティストとして名を残している人々も、一人の人間であることに代わりはないのだから。
ただ私が思うのは、やはり生産性だけを重視したような作曲理論が一般的になってしまっているのは、何度も述べているように、文化の停滞を感じてしまう。
例えばビートルズは、音楽の中でも芸術の方面で紹介されることがある。もちろんそれは当時の時代から考えれば当然のことかもしれないが、彼らもまた、前衛的、実験的な音楽を作っていたのはご存知だろうか。
もちろんそれはビートルズに限らず、あらゆるバンドやアーティストがやっていたことだろう。出なければ、ギターを振り回したり、オルガンをわざと揺らしたりなんて発想は思いつかないはずだ。もっと言えば、ディストーションの効いたギターサウンドも誕生していなかったかもしれない。
新しい楽器や形式が生まれれば、そこから新たなジャンルや発想が生まれるのは当然のことだが、近年は特に、そのような変化が訪れていないように感じる。
そうなってしまった原因に、やはり生産性を重視した理論と、それを売り物にしている音楽業界があるのではないだろうか。また、そのようにして産まれた楽曲だけを受け入れて、満足してしまっている我々にも責任はあるのだ。
クラシック音楽は、普段からテレビや映画で耳に入れていたり、コンサートに足を運ぶ人も多いだろうが、その中でも現代音楽となると、なかなか自ら足を運んでホールで聴きに行く、という人は多くないだろう。
しかし、歴史を辿れば現代音楽が時代の最先端であり、商業音楽などは、言ってしまえばその歴史の流れから零れた素材を集めて作られたようなジャンルとも言えるのだ。
私はクラシックや現代音楽至上主義者とまではいかないが、例えばコード理論は、和声から産まれたものであり、有名なコード進行であるカノン進行は、パッヘルベルのカノンの和声の構造から来ている。
クラシックというと、一つの音楽のジャンルと捉える人も多いかもしれないが、その一つのジャンルでも、クラシックは取り分け長い歴史を持っている。その中に他のジャンルの要素や素材があるのはもちろん、そこから新たなジャンルや音楽の形式を作り出すことも可能なのである。
極端に言ってしまえば、今日の現代音楽というものは、そのような方法で、新たなジャンル、言い換えれば、新たに構築する理論を模索し研究している最中なのだ。
また、現代音楽(ここでいう意味は、メロディもハーモニーも無いような音楽)は、他の曲が旋律、言わば横の流れを楽しむのに対して、縦の響きや、一瞬の響きを楽しむ楽曲とも言われている。メロディーのどの部分に感動するか、と同じように、現代音楽もどの部分の楽器同士の響きや、空間に感動するか、は個人の感性で異なるのだ。
例えば、森に入って、耳を澄ますと、どんな音が聞こえるだろうか。
野鳥の鳴き声、虫の鳴き声、風で揺れる木々の音、自分の息遣い、鼓動。
それらを日本人であれば耳障りだと思う人は少ないだろうし、どちらかと言えば心が安らぐような気持ちになるのではないだろうか。
しかし、それらの音の集まりは、音楽と呼べるのだろうか。また、音楽と思って耳を集中させないと聞き入れることが出来ず、単なる騒音になってしまうのだろうか。
現代音楽も、音楽として耳や頭を集中させて聴くことよりも、一度肩の力を抜き、リラックスして、まるでその流れる音の世界に溶け込むようにして耳に入れると、少しでも抵抗感が無くなり、自分に合う好きな楽曲が見つかるかもしれない。
何も無いところから、アイデアは産まれない。
少しでも新しい音楽や、個性溢れる楽曲を作りたいという気持ちがあるのなら、ジャンルを選ばずに、あらゆる音楽を聴き、研究してみるのも一つの手である。
作品名:初音ミクは悲劇のヒロインになる 作家名:みこと