恋愛小説
士朗は119番がつながる寸前で慌ててポータブルフォンを切った。間髪を入れず、震える手を片手で押さえながら、メモリーを検索する。
確か、ステーション勤務になる前に、姉さんの緊急時の連絡先として登録したはず! それが、記憶違いでなければ…。
果たして、天は彼を見放さなかった。
自宅でくつろいでいた志麻は、士朗からの突然の電話に仰天したものの、事態を冷静に受け止め、その申し入れが無謀であることを即座に指摘した。
「ダメよ、ベースの医局は。監視カメラだらけだもの。こんな時間に事故車で乗り込めるはずないじゃないの」
その通りだった。士朗は動転していた。
「受け入れ先を探すわ。そのまま待てる?」
一旦、電話を切り、早鐘のような心臓をなだめるように、士朗は右手の拳で左の胸を叩いた。志麻からの連絡を待つ間に、依子を抱き上げて自分の車の助手席へ乗せる。トランクに常備していたブランケットを引きずり出し、依子の紙のように白い顔を覆うように引き上げてから、士朗はハンドルの上に指を組んで祈った。
今夜起こした事故は、何としても隠さねばならなかった。万一、公になるようなことがあれば、それこそ世間は大騒ぎだ。何よりもあの巌のような祖父が黙っていまい。大げさでなく依子は確実に自宅監禁となり、おそらくもう二度と会えなくなるだろう。気を失ってはいたが幸いなことに依子に目立った外傷はない。
士朗は、生まれてこのかた一度足りとも祈ったことのない科白を口にした。
ああ。どうか…神様!
永遠とも思われた待機だったが、折り返しの連絡が入ったのは、わずか2分足らずだった。
志麻が指定した場所は、芸能人や富裕層が利用することで有名な私立病院で、事故現場から1キロ弱の距離にあった。士朗は、慎重にエンジンをかけ静かに車を発進させた。
到着するやいなや、依子は待っていたストレッチャーに乗せられ、直ちに院内へ運び込まれた。入れ替わりに院長自ら士朗を迎え出て、地下にある私有駐車場へ車を隠すよう誘導してくれた。院長への謝辞もそこそこに、事故現場の近くまでタクシーで取って返す。烈しい雨と暗闇を味方に、対向車の視線を避けるよう路地を抜け、士朗は、なんとか依子の車を自宅マンションの駐車場へ潜り込ませることに成功した。処置については後日考えることにし、注意深くカバーで覆う。
士朗は病院へ戻るタクシーの中で、今度は、俄に依子の容態が気になった。
いったい。この選択は正しかったのか。もしや一刻を争う状態で、彼女に万一のことがあったら…。
一方、救急病棟では、士朗と入れ替わりに到着した志麻が、医師たちを手伝って依子の精密検査にあたっていた。
志麻の指示で、その到着をエントランスで待ちかねた看護師たちは、呆然自失の士朗を手際よくタクシーから抱き下ろし、用意していた車椅子に座らせた。検査室へと運ばれる長い廊下で、士朗は漸く自身の身体の痛みに気づいた。拳で拭った汗は、乾き始めた額からの血痕であった。
ものの一時間ですべての検査は終了し、結果は直ぐに出た。
依子は、精神的に参ってはいるものの奇跡的に怪我はなく、見つかったのは膝に軽い打撲だけだった。どうやら、高級車は身を挺してオーナーを護ってくれたようだ。
士朗も脳波やレントゲン検査に異常はみられなかった。心配されたムチウチ症状も現段階ではない。激突の衝撃で額をサイドガラスにぶつけた傷口を5針ほど縫ったが、この程度の傷は飛行科訓練では日常茶飯事の部類だった。
念のためひと晩、簡易ギブスを装着することになり、その処置をされる合間に「(軽傷で済んだのは)日頃の鍛錬の賜物ですね」と、士朗は軽口を叩いてみたが、これはさすがに笑える冗談ではなかった。
志麻が、依子の父・克範に連絡を入れたのは、午前一時を回っていた。
「残業中、急な発熱で倒れた」と伝えたにもかかわらず、克範に驚いた様子がないのは、おおかた依子が、許婚者が訪問している自宅へ帰りたくないがために、仮病を使っているとでも思ったのだろう。自分の娘が、祖父の決めた縁談を受け入れていないことを当然のことながら克範は理解していた。
安定剤を射たれた依子は特別室へ移され、今頃はぐっすり眠っているはずだ。
医師たちは、志麻と一言二言、交わしては部屋を出ていった。その一々に、志麻は頭を下げ、次いで士朗も従った。
最後の看護師が出ていくのを見送ると、処置室には、これまでの騒ぎが嘘のような静寂で満たされた。
士朗と二人きりになったのを見計らい、志麻はコーヒーサーバーへと立った。
「女医」
と、背中に呼び掛ける士朗に反応するようすもなく、志麻は二人分のコーヒーをカップへ汲みとった。
「この度は…申しわけありませんでした」
振り返ると、床に両膝をつき、その上に拳を握りしめた士郎が志麻を見上げていた。
「何から何までお世話になってしまって。本当に、なんとお礼を言っていいか」
そして、
「助けて下さって感謝します。ありがとうございました」
と、士朗は深々と頭を垂れた。
志麻は士朗のそばにしゃがみ込み、黙ってコーヒーカップを差し出した。軽く顎を上げて促し、自分も一口飲む。
「ほ。お金持ちの病院は、コーヒーも上等だこと」
つられて、士朗も口をつける。美味い…かどうかはわからなかった。ただ、ひどく喉が乾いていたらしく、一気に飲み干してしまった。
志麻は、それを凝っと見つめながら、
「座って」
と、簡易ベッドを勧め、士朗の手からカップを受け取った。
「あなたたちの込み入った事情なんて知りたくもないところだけれど」
言いながら、コーヒーのおかわりを注いで再び士朗に差し出すと、志麻は士朗に対座する格好で、傍らの椅子へ足を組んで腰掛けた。
「今回ばかりはそうもいかないわ。だって、私はもう部外者じゃないもの。それから、リコは、後輩であると同時に小さい頃からの私のクランケなの。だから、事情を聴いておく義務がある」
「…クランケ」
眉を顰める士朗に、大意はないわ。と、いうふうに志麻は片手を振り、
「まあ。いわゆる、ホームドクターってやつ」
と、修めた。そして、カップを回しながら、その中へ視線を落とし、
「車。みさせてもらったわ」
と、感情の篭らない声で呟いた。
士朗は、志麻を恐る恐る見つめた。
「接触事故を起こしたって聞いたけど。これまた、ずい分、烈しい接触だったようね」
何処まで喋っていいのだろうと考えあぐねているのが、士朗の横顔から見て取れる。
暫しの沈黙のあと、志麻は質問を変えた。
「もし、間違ってたら、違うって言って」
士朗は静かに志麻を見返した。
「無茶をしようとしたのはあの子ね。あなたはそれを止めようとした」
士朗の瞳孔が開くのを志麻は見逃さなかった。
――そういうことか。
それが今夜の一部始終なのだと、志麻は納得した。どんな事情があったにせよ、依子は激情をぶつける相手として士朗を選び、士郎はそれを受け止めた。二人の間で交わされた想いについては知る由もないが、それだけは、まぎれもない事実なのだろう。
「…にしても」
志麻は、大きく伸びをして、空のカップをゴミ箱へ投げ捨てた。
確か、ステーション勤務になる前に、姉さんの緊急時の連絡先として登録したはず! それが、記憶違いでなければ…。
果たして、天は彼を見放さなかった。
自宅でくつろいでいた志麻は、士朗からの突然の電話に仰天したものの、事態を冷静に受け止め、その申し入れが無謀であることを即座に指摘した。
「ダメよ、ベースの医局は。監視カメラだらけだもの。こんな時間に事故車で乗り込めるはずないじゃないの」
その通りだった。士朗は動転していた。
「受け入れ先を探すわ。そのまま待てる?」
一旦、電話を切り、早鐘のような心臓をなだめるように、士朗は右手の拳で左の胸を叩いた。志麻からの連絡を待つ間に、依子を抱き上げて自分の車の助手席へ乗せる。トランクに常備していたブランケットを引きずり出し、依子の紙のように白い顔を覆うように引き上げてから、士朗はハンドルの上に指を組んで祈った。
今夜起こした事故は、何としても隠さねばならなかった。万一、公になるようなことがあれば、それこそ世間は大騒ぎだ。何よりもあの巌のような祖父が黙っていまい。大げさでなく依子は確実に自宅監禁となり、おそらくもう二度と会えなくなるだろう。気を失ってはいたが幸いなことに依子に目立った外傷はない。
士朗は、生まれてこのかた一度足りとも祈ったことのない科白を口にした。
ああ。どうか…神様!
永遠とも思われた待機だったが、折り返しの連絡が入ったのは、わずか2分足らずだった。
志麻が指定した場所は、芸能人や富裕層が利用することで有名な私立病院で、事故現場から1キロ弱の距離にあった。士朗は、慎重にエンジンをかけ静かに車を発進させた。
到着するやいなや、依子は待っていたストレッチャーに乗せられ、直ちに院内へ運び込まれた。入れ替わりに院長自ら士朗を迎え出て、地下にある私有駐車場へ車を隠すよう誘導してくれた。院長への謝辞もそこそこに、事故現場の近くまでタクシーで取って返す。烈しい雨と暗闇を味方に、対向車の視線を避けるよう路地を抜け、士朗は、なんとか依子の車を自宅マンションの駐車場へ潜り込ませることに成功した。処置については後日考えることにし、注意深くカバーで覆う。
士朗は病院へ戻るタクシーの中で、今度は、俄に依子の容態が気になった。
いったい。この選択は正しかったのか。もしや一刻を争う状態で、彼女に万一のことがあったら…。
一方、救急病棟では、士朗と入れ替わりに到着した志麻が、医師たちを手伝って依子の精密検査にあたっていた。
志麻の指示で、その到着をエントランスで待ちかねた看護師たちは、呆然自失の士朗を手際よくタクシーから抱き下ろし、用意していた車椅子に座らせた。検査室へと運ばれる長い廊下で、士朗は漸く自身の身体の痛みに気づいた。拳で拭った汗は、乾き始めた額からの血痕であった。
ものの一時間ですべての検査は終了し、結果は直ぐに出た。
依子は、精神的に参ってはいるものの奇跡的に怪我はなく、見つかったのは膝に軽い打撲だけだった。どうやら、高級車は身を挺してオーナーを護ってくれたようだ。
士朗も脳波やレントゲン検査に異常はみられなかった。心配されたムチウチ症状も現段階ではない。激突の衝撃で額をサイドガラスにぶつけた傷口を5針ほど縫ったが、この程度の傷は飛行科訓練では日常茶飯事の部類だった。
念のためひと晩、簡易ギブスを装着することになり、その処置をされる合間に「(軽傷で済んだのは)日頃の鍛錬の賜物ですね」と、士朗は軽口を叩いてみたが、これはさすがに笑える冗談ではなかった。
志麻が、依子の父・克範に連絡を入れたのは、午前一時を回っていた。
「残業中、急な発熱で倒れた」と伝えたにもかかわらず、克範に驚いた様子がないのは、おおかた依子が、許婚者が訪問している自宅へ帰りたくないがために、仮病を使っているとでも思ったのだろう。自分の娘が、祖父の決めた縁談を受け入れていないことを当然のことながら克範は理解していた。
安定剤を射たれた依子は特別室へ移され、今頃はぐっすり眠っているはずだ。
医師たちは、志麻と一言二言、交わしては部屋を出ていった。その一々に、志麻は頭を下げ、次いで士朗も従った。
最後の看護師が出ていくのを見送ると、処置室には、これまでの騒ぎが嘘のような静寂で満たされた。
士朗と二人きりになったのを見計らい、志麻はコーヒーサーバーへと立った。
「女医」
と、背中に呼び掛ける士朗に反応するようすもなく、志麻は二人分のコーヒーをカップへ汲みとった。
「この度は…申しわけありませんでした」
振り返ると、床に両膝をつき、その上に拳を握りしめた士郎が志麻を見上げていた。
「何から何までお世話になってしまって。本当に、なんとお礼を言っていいか」
そして、
「助けて下さって感謝します。ありがとうございました」
と、士朗は深々と頭を垂れた。
志麻は士朗のそばにしゃがみ込み、黙ってコーヒーカップを差し出した。軽く顎を上げて促し、自分も一口飲む。
「ほ。お金持ちの病院は、コーヒーも上等だこと」
つられて、士朗も口をつける。美味い…かどうかはわからなかった。ただ、ひどく喉が乾いていたらしく、一気に飲み干してしまった。
志麻は、それを凝っと見つめながら、
「座って」
と、簡易ベッドを勧め、士朗の手からカップを受け取った。
「あなたたちの込み入った事情なんて知りたくもないところだけれど」
言いながら、コーヒーのおかわりを注いで再び士朗に差し出すと、志麻は士朗に対座する格好で、傍らの椅子へ足を組んで腰掛けた。
「今回ばかりはそうもいかないわ。だって、私はもう部外者じゃないもの。それから、リコは、後輩であると同時に小さい頃からの私のクランケなの。だから、事情を聴いておく義務がある」
「…クランケ」
眉を顰める士朗に、大意はないわ。と、いうふうに志麻は片手を振り、
「まあ。いわゆる、ホームドクターってやつ」
と、修めた。そして、カップを回しながら、その中へ視線を落とし、
「車。みさせてもらったわ」
と、感情の篭らない声で呟いた。
士朗は、志麻を恐る恐る見つめた。
「接触事故を起こしたって聞いたけど。これまた、ずい分、烈しい接触だったようね」
何処まで喋っていいのだろうと考えあぐねているのが、士朗の横顔から見て取れる。
暫しの沈黙のあと、志麻は質問を変えた。
「もし、間違ってたら、違うって言って」
士朗は静かに志麻を見返した。
「無茶をしようとしたのはあの子ね。あなたはそれを止めようとした」
士朗の瞳孔が開くのを志麻は見逃さなかった。
――そういうことか。
それが今夜の一部始終なのだと、志麻は納得した。どんな事情があったにせよ、依子は激情をぶつける相手として士朗を選び、士郎はそれを受け止めた。二人の間で交わされた想いについては知る由もないが、それだけは、まぎれもない事実なのだろう。
「…にしても」
志麻は、大きく伸びをして、空のカップをゴミ箱へ投げ捨てた。