双星恋歌
1.娘と青年
玉瑞は苦しかった。物理的に、ではなく心理的に。
つまりは身体のどこかが痛い、とか血が出ているとかそういうはなしではなく、ずんと胸を塞ぐような感じがして、ただひたすらに気分が悪かったのである。ひょっとしたら昨日、薄い味の汁にぶち込んでひとりもそもそ食べた野菜がいたんでいたのかもしれない。菜っ葉は足がはやいらしいぞと、だんだんわかってきてはいたのだけれど、まだいけるかもしれない。と思ったのが運のツキだったのか。
(って…そんなわけ、ないでしょうが)
はあ、と息を吐き出すと疲労感が増した。わたしはいったい何をしているのだろう。慣れない料理なんかして手が荒れて、支給された安っぽい衣なんか着ちゃって、不細工な男どもに囲まれて。ばかげたことを考えて、くだらないことに思い悩むためにこんな場所にいるわけではないのに。
ほんの数日前までの玉瑞は、たとえ当代いち栄えた都、瑛杏に星の数ほどある酒楼、茶館の中でもほんのひとにぎりにのみ贈られる称号『華印四つ』の名店であるとはいえ、こんな店に用などなかったのだ。わざわざ外へ出ずとも、うちの料理人の腕は確かで、他から引き抜きをせねばならないような問題なんてありはしなかった。
それが店の戸に齧りついて「仕事をくれ、さもなきゃ店の前で自害してやる」と大声で騒ぎたてるようなみっともない真似をしてまで下働きの口を乞うことになるとは。そうまでして得た職ではあるが、玉瑞としては、出来ることならはやいところ目的を遂げておさらばしてしまいたい。
「玉瑞っ、そんな厨房の隅っこで油売ってないでちゃっちゃと客に給仕しな」
ひょいと覗き込んできた女主人を、キッと睨みつけてやろうかと思った。…ものの、そんなことしようものなら倍返しにされて己が身に降りかかってくる、というのを数日はたらいているうちに学んでいたので、ここはぐっと堪えておく。くそう、鬼婆め。憶えてろ借りは必ず返してやる。玉瑞はひそかに決意した。
安っぽい油のにおい、べたべたする床や壁。精緻な文様の入ったおおぶりの皿だけでもかなりの重量であるのに、それに料理が載せられると格段に運ぶのが非常に困難になる。熱々の汁物なんて持たされた時にはいつぶちまけてしまわないかと気が気でない。どうしてじぶんが、とつねに思うがこの不満を誰に訴えていいのかがわからない。というよりも、そんな相談をする相手がいるようなら、玉瑞はこうして孤軍奮闘する破目にはなっていないのだ。
「はい、清炒菜心と雲呑麺」
「………っ」
ごとり、と雑なやり方で銀盆から卓の上に注文の品を移動させる。玉瑞がサボっていたせいで待たせてしまっていた客が、ぎょっとしたように息を呑んだ。たいそうやる気のなさそうな小娘に給仕されたら嫌だろうなわたしでも怒るものと思いながら、玉瑞は態度を改める気はなかった。なにか文句でもあるのか、とちらと客の顔に目線を動かすと、
「…ね、いしゃくさま?」
「……………人違いだ」
「嘘、うそだ、うそです、ほんものの檸爍さまだ…わたしずっと貴方を待っていたんですよぅ。貴方が此の酒楼によくいらっしゃると小耳にはさんでいたので、数日前からずっと、休みもなく働き通しで…うっ、うう」
しゃくりあげながら、切々と。玉瑞は顔を大きく背けた青年に向かって涙交じりの訴えを開始した。ここぞとばかりに使用した女の武器に、びくりと青年の肩が揺れたのを見て、ほくそ笑む。
当然のことながら、彼女の涙はにせもの、つまりは嘘泣きである。声高に正体を偽ったのね、と非難したくせに我ながらよくやるものだわと内心呆れる。でも玉瑞は彼をどうしても逃すわけにはいかなかった。
じぶんは、彼に逢うためだけに此処にいるのだから。
檸爍は頭を抱えていた。どうしたものだろう、この場を上手く切り抜けるには? 頭の中をいくつもの草案が駆け巡るがすぐに却下されて、どうしようもないとの結論が出る。ああまったく由々しき事態、手早い対応を。一刻も早く此処を立ち去るが吉。ではその方法は? 堂々巡りである。
声を詰まらせた娘を茫然とした様子で見つめていると、檸爍は周囲の視線が自分を責めるようなものになっていることに気がついてしまった。ひそひそと立派な身なりの貴族たちがささやく声が聞こえる。あの兄さんいったいどんな神経をしているのかしら、あんな美しい娘を泣かせてどんな色男なんだおやたいしたことないじゃないか云々。
ほんとうは気が付かない方が幸せであっただろうが、生憎彼はどちらかといえば耳が良かった。ありとあらゆる面で完全無欠、と評されることの多い彼にとって、当然のように備わっている良心的な振舞いや、人並み以上の優しさこそが彼の弱点でもあった。そのことでしばしば余計な問題を背負い込むことは少なくない、むしろ多い。
「あのな、君は」
「…嫌っ、玉瑞って呼んで」
「……(誰か助けてくれ)」
当然のことながら檸爍の声にならない叫びは誰にも届くことはなかった。檸爍の了承を得る前に娘、玉瑞は空いている椅子に腰掛けた。そして自身が運んできた料理に箸をつける。それはもう、ごく自然な動作だった。
「玉瑞」
「なんですか、わたしのいとしい檸爍さま」
麺をすすりながら彼女はこちらを向いた。それは俺が注文した料理なんだが、という文句は果して受け付けてもらえるのだろうか。疑問が顔に表れていたのか、玉瑞は手元の椀と箸と、皿とを見比べてにっこりと笑った。
「檸爍さま。はい、あ~ん。してくださいね?」
「頼むから、誰でも良いからこの状況をどうにかしてくれないか…」
その願いが届いたのか、にゃっと猫が摘み上げられたような声を彼は聞いた。がたり、と椅子を引く音が続く。
「…こんのごみちびが、お客様に何してるんだい…」
青筋を立てたおかみが小柄な娘の腕を引っ張り上げていた。
「やん、檸爍さま~っ」
どうしよう、まったく同情する気が起きない。檸爍は瞑目し、目頭の辺りを揉んだ。なんだか泣きたくなってきたが、今、まさに件の娘は泣きそうな眸を彼に向けている。見なくてもわかる。
頭脳明晰、謹厳実直と同僚の官吏や上司からの受けも良い檸爍であるが、唯一、こと女性関係においては話が別である。女癖が悪いとかではなく、むしろその逆なわけで。
お前さ、女難の相でも出てるんじゃないか。というのは付き合いの長い友人の談である。醜男だと悲観するつもりはないが、自分の顔がさほど華やかなものでないことは重々知っている。
そもそも、彼の周囲には檸爍よりもよっぽどの美男が揃っているので、わざわざ自分のところに来るようなのは風変わりな趣味の持ち主であるのは確かだとは思っているが。そうこぼすと、友はわかっちゃいないなと呆れたように言った。
『檸爍、お前は僕の自慢の友人だよ。だけど…』
深く息を吸い、吐き出すと意を決したように目を見開いた。鋭いまなざしが、大きな眸を潤ませた娘を連れて行こうとしていた女に向けられた。
「申し訳ないが、その娘の手を放してやってくれないか」
「檸爍さま。お気遣いは感謝いたしますが、この娘はほんとうにどうしようもない子なのです。雇えと言った割にはなにひとつ一人前には出来ず、口ばっかり達者でわがままな…まるでじぶんをどこかの姫君かと思っているような」
「……姫です」
「はい?」