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数ミリでも近くに

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「避妊しないでセックスした事は糾弾しないよ。でも、生まれてくる子供の父親は、遺伝的には兄ちゃんでも、兄ちゃんと葉子が別れた今は、葉子が決める事だと思ってる。それでいいよね?」
 オムライスに掛かったケチャップを玉子の薄い膜にペタペタと塗りつけながら、再び「んー」と返事にならない声を出した晴人に、健人は苛立ちを隠せなかった。
「俺は選択肢として、一人を選ぶか、兄ちゃんを選ぶか、俺を選ぶかの三つを提示してきた。他に考え付かない。俺は、血のつながりが全てではないと思ってる。兄ちゃんと俺だって、半分しか繋がってないのにこうして仲良くやってる。俺は血が繋がってなくても、兄ちゃんの遺伝子を持ってる子供ならなおさら、きちんと育ててやる、そう思ってる」
 左手で頭をぽりぽり掻きながら「お前には敵わない」と晴人は言った。
「俺は葉子一人も幸せにしてやれるか分かんないもんな。その三つの選択肢に入れて貰えただけでも光栄だ」
 そう言ってオムライスを一口運んだ。
 結局、バードハウス内には葉子の妊娠を知らない者はいなくなってしまった。
 鈍い連中ではないという事だな、健人はそう思った。



.責任


「葉子、入るよ」
 水色のドアを開けて、ロフトへ続く階段を上る。
 飲み終ったゼリー飲料のゴミが、ゴミ箱にいくつかあった。
「少しは食べられてるんだね」
「うん」
 葉子は力なく返事をした。
「明日会社だけど、休む?」
「行ってみる。ダメそうなら早退すればいいし。培養してる菌がいるから、出社しない訳にはいかないんだ」
「そうか」
 身体を起こした葉子は、深くため息を吐いた。
「三つの中の一つ、決めたんだ。聞いてくれる?」
 居住まいを正して、葉子の方を向いた。「どうぞ」
「シングルマザーになる。一人で育てる。健ちゃんが就職してもまだ私を好きでいてくれたら、お父さんになってくれないかなぁ?」
 健人は暫く考え込んだ。思い描いていた返事は三番だったのだから。
「どうして就職が関係あるの?」
 静かに訊いた。葉子は頭の中で考えをまとめるのに少し時間が掛かった。
「だってね、健ちゃん、就職する時にもう子供がいます、とか、嫁がいます、なんてちょっと恥ずかしいでしょ?」
 やっぱり、そんな事だと思った。健人は頭を抱えた。
「俺は――俺は葉子がどうしたいかを一番に考えるって言ったんだ。俺の事なんて考えないでいいんだ」
「でも――」
「でもじゃない。それに、その時まで好きだったら、だって?好きに決まってる。だから俺は葉子の子供の父親になる事を望んでる」
 隣の部屋から漏れ聞こえてくる音楽の他には何の音もしない。どちらも声を発しない。
 健人は葉子を抱き寄せた。自分の目に涙が浮かんでくるのを悟られたくなかったからだ。
「俺の事なんて心配しないでいいから。大切なのは葉子の考えだ。俺はどうなったっていい」
 震える声はなかなか制御できず、葉子は健人の背中を擦った。背中はとても暖かく、片手で擦るには広すぎるなぁと、葉子は大きく手を動かした。
「三つ目。健ちゃんがお腹の子のパパになって。そして私をお嫁さんにして」
 今度は声どころではなく、全身が震えた。健人の双眸から葉子のベッドシーツへぽたぽたと涙が零れ落ち、吸収されていった。震える健人の身体を抱き、頭を撫で、初めて健人の弱い姿を葉子は見た。愛おしいと思った。
「健ちゃんが博士号をとって大学を出たら、バードハウスから出よう。三人で小さな部屋を借りて、一緒に暮らそう」
 健人は声なく頷いた。そして身体を離し眼鏡を外し、近くにあったティッシュで目蓋を押えた。
「恥ずかしいなぁ、こんな姿を見せて」
 葉子はその姿を目に焼き付けておこうと思った。
「私の為に泣いてくれた男の人、第一号」
「第二号は?」
「子供が男の子だったら子供だね」


「葉子、妊娠してるみたいじゃん」
 スミカはソファに腰掛けて、対面に座る晴人の言葉を待った。
「そうだな、しかも俺の種だな」
 フンと鼻で笑ったスミカは「男は進化しないね」と言った。
「学習能力が無いんだよ。種を撒くだけ撒いて、それが芽吹く事を学習しない。ほんっと、バカな生き物だと思うよ」
「そして俺は芽吹いた新芽を、弟に持って行かれる」
 晴人は首の後ろをぽりぽりと掻いた。「参ったな」
「俺の子供が、俺の甥か姪になるって事だな。何か複雑だな」
 スミカは冷たい目で晴人を見据えた。
「原因を作ったのは晴人でしょ。まだ健人が子供の父親になるって決まった訳じゃない。最悪の場合、葉子はシングルマザーになるかもしれないんだよ?養育費払える?もう少し責任感を持った方が良いよ」
 クッションを顔に押し付けて「シングルマザーかよー」と悔しそうに口にした。
「シングルになるぐらいなら俺を父親として迎えてくれないかなぁ」
 ついにスミカは晴人から視線を外した。
「無理でしょ、確実に」


 その日の夜、葉子が一日ぶりにリビングに姿を見せた。顔面蒼白で、健人に支えられながらよたよたと歩いた。
「葉子!」
 スミカが目を見開いて彼女を見ると、葉子は力なく頬を緩めた。
「話があって出てきたの」
 健人は葉子に肩を貸し、ソファに座らせた。スミカと晴人は向かいに座った。
「まだ産婦人科に行った訳じゃないけど、妊娠してるみたい」
 周知の事実だったので、スミカも晴人も静かに頷いた。
「もし生まれる事になったら、父親は健人になってもらうつもり」
 晴人は予想通りと思い俯き、スミカは驚いていて口を出した。
「だって晴人の――」
「そう、晴人の子。だけど晴人と夫婦にはなれない。でも一人で育てていく強さを私は持ってない。健ちゃんに、パパになってもらうの」
 健人は頷きもせず、ソファに身を沈めたまま中空を見つめている。
「健人はそれでいいの?晴人の子を自分の子としていいの?」
 視線をスミカにやった健人は、片側の口角を少し上げて笑いながら言った。
「よくさぁ、両親を事故で亡くした子供が、おじさんやおばさんに育てられるっていうの、あるでしょ。あれと殆ど同じだと思うし、俺は本当に自分の子供として育てていく自信がある」
 スミカは黙った。そこまで決意が固いのなら仕方がないと思った。
 晴人は俯いていた顔を上げて葉子に視線を遣った。
「葉子、なんつーか、ごめん」
 本当に悪いと思った。それ故に視線を外せなかった。それ以外に言う言葉が見付らなかった。葉子の双眸を見つめると、葉子の顔が優しく崩れた。
「いいの。一生ママになんてなれないと思ってたし、健ちゃんと一緒になる口実も出来たし、パンクな遺伝子も載ってるかもしれないし」
 予想外の砕けた語り口調に、皆笑った。母は強し?ってやつか?晴人は許されない過ちを犯しているにも関わらず、どこか許されたような気がして不思議だった。

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.永遠に白く


 翌年十月に、葉子と健人の子供、真人が生まれた。
 葉子の為に泣いてくれた男、二番目となった。
作品名:数ミリでも近くに 作家名:はち