小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

蒼天の下

INDEX|1ページ/16ページ|

次のページ
 
 愛犬が処分されたのを省庁の役人のせいにした人がいた。それなら、わたしは母を殺したのは例の学務係の谷岳氏であると言おう。しかるべき連絡が彼の怠慢によって遅れ、母はそのわずかな時間差のせいで、まさしくそれが原因で死ぬことになったからである。
 彼に悪意があったかどうかは、さして重要ではない。彼には国家公務員として職務に忠実である義務があったはずであり、それを怠ったことで、ひとりの人間を死なせたのである。
 ──参るよなあ。なんだよ、いまごろ。
 彼奴は薄ら笑いと嘆息を交えながら腰を上げたのだろうが、向かった先は学部長室ではなく学内の喫茶室であって、そこで誰かとゆるりとした時間を持ったのである、おそらくだが。そういった行動があるべきスケジュールを遅らせ、而して赤の他人である母の運命のピースを毀つことに繋がったのに違いない。
 運命のなんたらなど、どうということはない。普通のやつが、いたるところに転がっている。
 わたしの母方の従兄弟に、専門学校を出て技官として採用されたはいいが、直後から、年中霧で煙る湖水の畔に建つ半官半民の工科学院みたいなところに遣られて、そこで長年講師をしている男がいるのだが、妙齢の女人率がゼロパーセントのかの鄙の地においては、異性との出会いなどもはや叶わぬものと観念していた。ところがある暗い晩に、ほろ酔いで道を歩いていると、教え子の母親の運転する車が側道に乗り上げてきて、そのまま轢かれてしまった。その事故がきっかけで、自分を轢いた十一歳年上のその女と結婚する運びとなって、いまでは平和なのか退屈なのかは知らんが、ともかく現実に家庭を築いているのである。
 ちなみにこの人とわたしの共通の祖母というのは若い時分、里芋の施肥に行った帰りに川に出て足を洗っているとき、一匹のマムシが流れてきて、そいつにふくらはぎを咬まれたのだそうだ。大騒ぎになり担ぎ込まれた医院で、ついでにこの従兄弟の母親、わたしの伯母を妊娠していることが判明したらしい。ま、運命の、というほどでもないが。
 もっとも、わたしは谷岳氏に恨みを持つことも、あだ討ちを考えることもない。それは彼我を分かつ隔たりのためではない。隔たりなら、原因というよりむしろ結果と言うべきものだ。
 いまわたしは、じつに多くのものに囲まれていて、という認識が確かにあり、これらの存在意義は、失うことへの恐怖と同値である。真偽が同期している。一方が真なら他方も真なり。偽もまたしかり。あのとき母の死を避けることができたとするならば、ただちに消え去るであろう──少なくとも思考の上では肯んぜざるを得ない──これらのものとの接触面のことを、ときにわたしは幸福とも呼んでいるからである。失うことへの強い恐怖心が、幸福をかたどる鋳型になっている。
 わたしは過去を振り返ることは好まない。ただ、もしあのとき……と思い返したときに、のちにわたしを取り巻いたかもしれない別の風景を夢想して、静かに笑うだけである。

 クワックゴーグー、ペレペレチュンチュン、プパップパップー。
「あのさ、何かおかしいの」
 ごった煮のような音に包まれていた。空笑いに苛立っているのか、顔を覗き込む人がいる。それが妻だとわかり、我にかえって仰げば尊し、青く遠い十二宮。いつの間にか風がやんでいた。湿度の高さが目に見える。
 エントランス広場の先の遊園地内は、すべてが霞んで見える。佇む携帯電話、日傘からもれる若い母親のしかめ面、タンタンと跳ねる子どもの生足。ガラスの反射光、のぼり旗、年齢不詳の茶髪。ピースする女の子と向き合ってしゃがみ込むデジカメの歪んだ口元。あらゆるものが動き、かつ止まっている。絶え間なく耳に流れ込んでくるのは、デキシーランドジャズ調のトロンボーンやクラリネットか。夏日となった五月の水蒸気に乗って、近くから遠くから、こんこんと降り注いでくる。
 手のひらがじっとりと汗ばんでいるのに気づいた。小学三年になる息子と手をつないだままだった。驚いて振り切りそうになるのをぐっとこらえる。いや本当に、俺、我に返りきっているのかどうか。そうだ犬だった、愛犬愛犬。
「この子とはいつも一緒なのです。いままで並ばせておいて何事ですか」
「いやもうあの、ほ、法定でですね、ペットは、あのご遠慮いただくことになってますので、あの」
 正面ゲートの境界手前で押し問答をしている、みっともない顔をしているチワワを抱いた金回りのよさそうな中国系の中年夫婦と遊園地のスタッフ、文字通り濃緑色の地に極太のゴチックでSTAFFと白く染め抜いた五分袖の作業着を着た男女三名、おそらく派遣されてきた契約社員のせいで、さっきからわたしたち家族から後ろの数百人が、足止めを食わされていたのだ。
 目の前で立ちふさがっている亭主の方は、背丈が二メートル近くあって、百八十センチ付近にある後頭部の位置が刈り上げてあり、しかも流暢な日本語で怒鳴っている。派手なハワイアンシャツの左肩から鼻先を後ろに向けて覗かせている主役のチワワは、こちらの視線に気付くと、そちらで飼ってはくれまいかと言わんばかりに、視線を固定してきた。
 中国人夫婦は、体重を支える足を入れ替えながら、園側の説得に折れる素振りは少しも見せない。腹が立ってきた。いや、スタッフにである。あとのお客様こちらからどうぞ、といった機転も利かないのか、君たちは。とくにこの作業着が似合わないのを小自慢しているかのような、照れ笑いしている中年スタッフ。この男の、あえて、臨時要員だ部外者だとにおわすような物腰が、余計に苛立たせるのだ。お客の前なんだからちゃんとやれ。
 などと顔だけで怒ってみても、しかし効果はない。だいたいセキュリティー対策とやらで、ゲートが一か所に絞られているのが悪いのだ。ならばいっちょう、当事者の片方であるこの外人に文句を言おうか。趣味の悪い中間色のスラックスをうしろから蹴り上げてみるか。それが先頭にいる俺の義務なのか。そうは言っても、二メートルはちょと怖い。そもそもこの御仁、香しい瑞穂の国にてその図体で、仕事は何をしているのか。
「……そうだねえ、ちょっと止まっちゃったみたいね。もうちょっと我慢かな」
「説明も何にもないんだもんな」
「てか最初からあんまし来る気なかったし」
 背後から聞こえる老若男女のざわめきに押されて合わせて、無声音で口を動かすのが関の山だ。目が合えば、ニーハオ、是好天气。左手の息子よ、もしこちらが利き手だったら別な姿かたちだったであろう息子よ、意気地のない父を許せ。愛想笑いはともかく、怒るのは苦手なのだ。昔は笑うのも苦手だった。
 中屋くんはよく笑った。あの子の真似はよくしたけど、笑い真似はできなかった。息子よ、僕は、いまのお前とおなじ小学校三年生の夏に、中屋くんが持ってきた硫安と体育小屋からつかみ出してきた消石灰を混ぜたことがある。二種類の粉末を牛角の薬さじで触れ合わせるだけで、その混じりあった粉の山が湿っぽく熱を持ち始め、あたりは異様な生臭さに包まれた。これがアンモニアの臭いなのだと中屋くんは笑った。
 ──うはは、みんな知らないだろうけど、アンモニアというのはな、おしっこの臭いなんかじゃないんだよ。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人