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プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第二章(中)】

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 地の果ては、巨獣が爪で引っ掻いたような溝だらけの丘陵地帯。ずっと昔、一帯を覆っていた氷河が地表を削った末に現在の地形になったのだとか。
 丘の上に日が沈む頃、馬車はホースチェス駅に到着しました。
 私は最北の地を赤く染める夕日に感動する余裕はなく、一刻も早く横になることばかり考えていました。今日はもう最初に目に入った宿に決めようと思います。
 レンガ造りの平屋駅舎の前をふらふらしていると、見覚えのある男の人が近づいてきました。
「あれ? こないだの癒師さんじゃないか」
「ターキーさん?」
 男の流感はもうすっかり良くなっていました。
「いやぁ、あの薬、すごく効いたよ。地元のヤブ医者が出したのとは全然違った」
「そ、それはどうも」
 なんでしょう。彼の笑顔を見ていると、首の後ろを冷たいものでなぞられたような感じがします。
「今日はどこかに泊まるのかい?」
「今から探すところです」
「だったら、うちに来ればいい」
「えっ? でも……」
「癒師の決まり事ってやつは、近所の爺さんに聞いた。かみさんがときどき胸が痛いっていうんだ」
「そうですか。では、お邪魔させていただきます」
 ターキーさんの家は、馬車駅から歩いて数分の海岸集落の一角にありました。木造の一軒家で、一階が船や漁具などの倉庫、二階が自宅という、この地域ではよく見かける『舟屋(ふなや)』とよばれる構造です。家の裏は石浜で、海の氷が引いて潮位が増すと、倉庫から直接船が出せるようになっています。
 倉庫横の階段を上がって、家主が二階の玄関を開けると、熱風が顔を打ちました。極北地域の人々は意外にも寒がりだそうで、雪解けの季節になってもまだ暖炉の炎はめらめらと盛り上がっていました。
 私はコートを脱ぎ、黒衣の袖をまくりました。それでもまだ汗ばむほどです。
「じきに慣れるわ」
 おととい五十を迎えたという、ターキーさんの妻、ハケアさんはとても太っていました。手先が器用で、魚肉加工所につとめているのですが、つまみ食いした分を消化するほどは動かないため、こうなってしまったとのこと。
 私はソファでくつろぐハケアさんに近づくと、大きな体に沿って手をかざしていきました。人型をしたエネルギーの図はどこも鮮やか。心の問題は特にないようです。ただ……。
「食べ過ぎですね。脂質のとりすぎです」
「シシツってなにさ? シジミなら詳しいけどね」
 ハケアさんは一人で笑っています。
「う……」
 そこからですか。
 私は話をつづけました。
「皇帝鯨の脂身などは、控えなくてはならないということです」
「じょ、冗談じゃないよ。あたしゃ、それがつまめるから瓶詰め屋で働いてんだ。クッ……」
 ハケアさんは顔を歪め、胸をおさえました。
 皇帝鯨は現在知られている海中生物では最大といわれ、どこを取っても牛肉並みの脂があるため人気があります。しかし、乱獲のために数が減って値が上がり、今では庶民の口に入ることは滅多にありません。ハケアさんは品質基準を満たさない、粗悪な脂ばかり口にしていました。
「このままでは、あと半年もすれば、あなたの心臓に血が通わなくなります」
「……」
 ハケアさんは真っ青になって姿勢を正しました。
「大丈夫。脂を控えていただければ、一ヶ月くらいで血管のゴミを取り除けます。でも、食べてしまったら私の施術は意味をなさないでしょう」
 太った婦人はうなだれました。
「はーあ、しょうがないね。でもさ、あの脂が食えないんじゃ、何のために生きてんだか、わかんなくなっちまうよ」

 最果ての地にやってきてから一ヶ月。
 大地に残っていた雪はすっかりなくなり、木の葉が揃いはじめ、ホースチェス村にも本格的な春がやってきました。
 ハケアさんは私のいいつけを守ってくれました。私が毎日施術をつづけると、血管のつまりは消え、胸の痛みはなくなり、体重は一割近く落ちました。足取りは軽やかとなり、遠くまで散歩に行くことも日課として定着しました。
 暖炉の煤払いを終えたハケアさんは言いました。
「まるで生まれ変わったような気分だよ」
「忍耐のたまものですよ」
 私は言いました。
「脂はさ、酒やタバコみたいなもんだね。なけりゃ生きてけないと思ってたけど、やめてみるとそうでもない。きっと、逃げ道が欲しかったんだね」
 ハケアさんは、本当は手芸の職人になりたかったそうですが、極北の小さな村では需要がないために、諦めてしまっていたのでした。村の商工会議所へ行ってよく調べてみると、工芸品などを都に運んで売ってくれる筋が存在することがわかりました。ハケアさんは今の仕事をやめて、錆びついていた手芸のリハビリに専念することにしました。
 ハケアさんは掃除道具を倉庫に片付け、また戻ってくると、言いました。
「それで、これからどうするつもりだい?」
「ここを失礼して、南へ下りたいと思います。東海岸をまわってきたので、今度は西側へ」
「せめて夏までいてくれないかね?」
「で、でも……」
「あたしのことじゃないよ。この村の医療事情はこないだ話したよね?」
 ホースチェス村には医者が二人しかいません。この辺りの冬はいつも猛吹雪で通院もままならないため、春から夏にかけて、症状を我慢していた患者がどっと押し寄せてきます。しかしながら、両人ともかなりの高齢のため、一日に診ることができる人数は限られていました。
 ハケアさんはつづけます。
「一軒一軒まわってたら、効率が悪い。その間に死んじまう子もいるだろう。そこであたしは考えた」
 アイデアを耳にした私は、思わず声をあげてしまいました。
「わ、私が院長!?」

 ターキー宅の一階の倉庫はすっかり片付けられ、代わりに近所の大工が廃材から作ったベッドと机が入りました。倉庫の出入口はレースのカーテンで仕切ってあります。前庭には、小学校から奪ってきた机に向かう、受付事務員ハケアさんの姿がありました。『プラム仮設診療所』という看板も作ったそうなのですが、それだけはやめてくださいとお願いして、事なきを得ました。
「次の方どうぞ」
 痩せた白眉の老人がカーテンを開くと、その後ろに人々の列が見えました。
 往診が原則の癒師がこんなことしていいんだろうか……私は罪悪感にさいなまれる一方、村人から寄せられる期待の高さに酔いしれてもいました。
「先生、あの薬、ばっちり効いたでよ」
「良かったですね」
 私は老人を半裸にしてベッドに寝かせると、体じゅうをさすり、またイスに座らせてから言いました。
「もう来なくても大丈夫ですよ」
 今のは触診という、癒術にはない方法です。この老人はターキーさんとは違い、癒術を信じない人でした。彼の疑いの心は私の能力を上回っていて、体が術を受けつけません。しかし、必ず効くといって出した薬草の粉——大した効能はありません——は、欠かさず服用してくれました。そこまではよかったんですが……。
 老人は得意げに言いました。
「漁協の連中、長年患ってきた俺が治ってきたの見て、すっ飛んできやがったろ?」
「ええ、まあ……」
 そんな調子で、薬を求める患者は日に日に増えていきました。