アーク2-3
☆2-3
アークはひどくイラついているようだった。耳の羽ばたきが必要以上に大きく、飛び方がいかにも荒々しい。あの魔物を逃がしてしまったのが、よほど悔しいようだ。
「悔しいとかそういう問題じゃない。安全保障の問題なんだ。あの魔獣が暴れまわって、もし陽極を傷つけでもしたら、魔力の供給が滞って、天使がまた減ってしまうぞ。まったく、第五陽極の警備隊はなにをやっているんだ!」
「まあでも、ほっといてもいいんじゃないの? あのバカでかい施設をどうこうできるとは、とても思えないんだけど。気にしすぎよ」
「なんだ、その言い草は」
アークの怒りの矛先は、今度はベルに向いた。
「だいたい、お前が遅いから、奴を逃がしてしまったんだぞ!」
「あんなのと戦ってらんないわよ、こちとらか弱い乙女なんだから」
「女も男も天使もあるか、魔獣は人類共通の敵だろうが!」
「親衛隊とやらに任せておけばいいじゃないの」
「その親衛隊がいなかったんだから、俺たちがやるべきだったんだ。戦うべき時に戦わなければ、力を持って生まれた意味が無い」
「あたしに言われてもねぇ」
アークは舌打ちすると、プイと背を向けてしまった。
ベルはため息を付いた。天使といっても、性格も「天使」というわけではないらしい。女神のユノを筆頭に、天使族というのはそんなに人間と変わらない精神構造のようである。肩を怒らせて飛ぶアークを見ていると、姿形は違えど、そこら辺によくいる向こう見ずな熱血少年のようにも見えてくる。
苛立ちを紛らわせるために、ベルはポケットから拾った時計を取り出して眺めた。売ればいくらになるだろうかと考えるだけで、乾いた気分も潤うというものだ。
「敵だ!」
いきなり、アークが叫んだ。
「あっ……」
驚いたベルは、持っていた時計を落としてしまった。時計は金色の海へと飲まれて消えた。
「何よ、藪から棒に!」
怒りをもってアークを見やると、その後ろ姿は既に青白い雷光を纏っていた。
その光の向こう、空の彼方に、いくつかの黒い点が蠢いているのが見えた。
「カラス?」
「魔獣だ、鳥形の!」
すなわち、ベルにもその正体が見えた。汚れたボロ布のような黒い翼をはためかせた、金属の嘴を持つ怪物。干からびた木乃伊のような脚には、剣のような鉤爪が光っていた。アークよりも一回りも二周りも大きなそれが、徒党を組んで、ベル達の方へ殺到する。
「ど、どうするの!」
鬼気迫る勢いのそれに圧倒され、ベルは恐慌に駆られたが、
「雑魚だな」
アークは動じる風も無く、両手を前に突き出すと、一際青く輝いた。
アークの両手から糸のような雷光がいくつも伸び、それに乗って、アークの体を包んでいた巨大な光球が、敵へと飛んだ。光球は魔獣たちの中心で膨れ上がり、それらを飲み込むと、小さくなって消えた。
音も無く、ものの数秒とかからなかった。鮮やかな技である。
ベルは口笛を吹いた。
「さっすが、天使じゃん」
「人里も近いところなのに、意外と遭遇するな」
アークは辺りを見回してから言った。
「もういない。先を急ごうぜ」
「あ。ちょっと待って」
時計を落としたことを思い出したベルは、Uターンして高度を下げた。
「お金落としちゃったのよね」
「ああ? カネだぁ? そんなもん、どうでもいいだろうが! おい、待てよ!」
アークのあきれ声が、天より降り注ぐ。
落とした時計を追って、ベルは稲田の脇へと降りた。
落とした場所は大体にしか分からなかった。探すには、腰の高さまである稲を掻き分けなければならないが、実りを傷つける可能性もあるので、少なからず抵抗を覚えた。が、結局、ベルは田へ分け入ることにした。
目測をつけた場所へと、実りを傷つけないように注意しながら、中腰になり、穂を払い、根元を掻き分けてゆく。一歩進む、その度に、香ばしい稲の香りが流れてゆく。さわさわと穂擦れの音が耳をくすぐった。
秋も深まりつつあるというのに、ベルは額に汗していた。
この田だけで、一体何人の口を満たせるのだろうか。揺れる稲の穂を見ていると、何をしようとしていたのか分からなくなりそう。そして、焦りにも似た、いつものあの感覚がやってくる。もうすぐ冬が来る。全てを白く凍らせる、冬が。
眠気と疲労で視界は歪み、ベルの意識は次第に朦朧とし始めていた。
稲を掻き分け開いた、金色の空間の向こうに、いるはずのない弟がいた。
ベルは息を呑み、そして我に返った。
「ねぇちゃん、だれだぁ?」
麦わら帽子をかぶった年端も行かない少年が、首を傾げた。
「ああ、うん」ベルは目を覚ますように、頭を振った。「ちょっと落し物しちゃって」
「おとしもの?」
「うん、時計なんだけど」
「うーん」少年はちょっと考えると、北部訛りが強い言葉で言った。「見なかったなぁ」
少年はしゃがみこんで、小さな鎌を使い、稲の刈り取りを行っていた。自分の背丈と同じくらいの稲の穂を小脇に抱え、少しずつ稲を刈ってゆく。鎌を扱う手つきがぎこちなく、見ていてはらはらするほどだ。
「お手伝い、してるんだ?」
ベルの見立てでは、少年の年齢は労働には適さないのだが。
「うん」少年は手を止めずに言う。「とうちゃんが、眠り病にやられちまって。手が足りないんだ」
「眠り病……」
「お医者様の話では、魔獣の毒気にやられたんじゃねぇかって。眠ったまんま、もう一週間も起きねえんだ」
「お寝坊さんなのね」
「あはは、そうだなー」
父親が病気だというのに、少年は無邪気に笑っている。眠り病がどういうものか、理解していないのだろう。
眠り病は、その名が示すとおり、罹患したものは眠り続けてしまうという病気だ。軽度の症状であれば、二~三日で覚醒するという話だが、重篤になると、腐り落ちて死ぬまで眠り続けるという。少年の父親が一週間眠り続けているということは、すでに、回復の希望は薄いということなのだ。
いたたまれなくなって、ベルは顔を背けた。
「手伝おっか」
うつむいて、落穂を拾った。
地面に落ちた稲の穂は、凍れるように冷たかった。ベルは一心不乱にそれらを拾い集めた。これを口にして今日命を繋ぐ者も、明日はどうなるか分からない。空虚を拾い集めているような、そんな錯覚を覚えてしまう。それでも人は、その空虚を拾い集めないわけにはいかないのだ。
手を伸ばした先の地面に一つ、小さな影が落ちた。
「おい、なにやってんだ」
顔を上げると、目の前に、アークの不細工な顔があった。
アークは口をへの字に曲げ、腕組みしながら、いらいらと貧乏ゆすりをしていた。
「なによ、感じ悪いわね」
ベルは構わず、アークの下の穂を拾った。
「だから、何やってんだ。それは今やるべきことなのか? 俺達には他にやるべき事があるだろうが!」
「あっ、天使様だ!」
少年はアークを見ると、集めた穂も鎌も放り出して跪き、頭を垂れた。
「いや、いいから」
アークはそれに素っ気無く応えると、ベルを睨んだ。
アークはひどくイラついているようだった。耳の羽ばたきが必要以上に大きく、飛び方がいかにも荒々しい。あの魔物を逃がしてしまったのが、よほど悔しいようだ。
「悔しいとかそういう問題じゃない。安全保障の問題なんだ。あの魔獣が暴れまわって、もし陽極を傷つけでもしたら、魔力の供給が滞って、天使がまた減ってしまうぞ。まったく、第五陽極の警備隊はなにをやっているんだ!」
「まあでも、ほっといてもいいんじゃないの? あのバカでかい施設をどうこうできるとは、とても思えないんだけど。気にしすぎよ」
「なんだ、その言い草は」
アークの怒りの矛先は、今度はベルに向いた。
「だいたい、お前が遅いから、奴を逃がしてしまったんだぞ!」
「あんなのと戦ってらんないわよ、こちとらか弱い乙女なんだから」
「女も男も天使もあるか、魔獣は人類共通の敵だろうが!」
「親衛隊とやらに任せておけばいいじゃないの」
「その親衛隊がいなかったんだから、俺たちがやるべきだったんだ。戦うべき時に戦わなければ、力を持って生まれた意味が無い」
「あたしに言われてもねぇ」
アークは舌打ちすると、プイと背を向けてしまった。
ベルはため息を付いた。天使といっても、性格も「天使」というわけではないらしい。女神のユノを筆頭に、天使族というのはそんなに人間と変わらない精神構造のようである。肩を怒らせて飛ぶアークを見ていると、姿形は違えど、そこら辺によくいる向こう見ずな熱血少年のようにも見えてくる。
苛立ちを紛らわせるために、ベルはポケットから拾った時計を取り出して眺めた。売ればいくらになるだろうかと考えるだけで、乾いた気分も潤うというものだ。
「敵だ!」
いきなり、アークが叫んだ。
「あっ……」
驚いたベルは、持っていた時計を落としてしまった。時計は金色の海へと飲まれて消えた。
「何よ、藪から棒に!」
怒りをもってアークを見やると、その後ろ姿は既に青白い雷光を纏っていた。
その光の向こう、空の彼方に、いくつかの黒い点が蠢いているのが見えた。
「カラス?」
「魔獣だ、鳥形の!」
すなわち、ベルにもその正体が見えた。汚れたボロ布のような黒い翼をはためかせた、金属の嘴を持つ怪物。干からびた木乃伊のような脚には、剣のような鉤爪が光っていた。アークよりも一回りも二周りも大きなそれが、徒党を組んで、ベル達の方へ殺到する。
「ど、どうするの!」
鬼気迫る勢いのそれに圧倒され、ベルは恐慌に駆られたが、
「雑魚だな」
アークは動じる風も無く、両手を前に突き出すと、一際青く輝いた。
アークの両手から糸のような雷光がいくつも伸び、それに乗って、アークの体を包んでいた巨大な光球が、敵へと飛んだ。光球は魔獣たちの中心で膨れ上がり、それらを飲み込むと、小さくなって消えた。
音も無く、ものの数秒とかからなかった。鮮やかな技である。
ベルは口笛を吹いた。
「さっすが、天使じゃん」
「人里も近いところなのに、意外と遭遇するな」
アークは辺りを見回してから言った。
「もういない。先を急ごうぜ」
「あ。ちょっと待って」
時計を落としたことを思い出したベルは、Uターンして高度を下げた。
「お金落としちゃったのよね」
「ああ? カネだぁ? そんなもん、どうでもいいだろうが! おい、待てよ!」
アークのあきれ声が、天より降り注ぐ。
落とした時計を追って、ベルは稲田の脇へと降りた。
落とした場所は大体にしか分からなかった。探すには、腰の高さまである稲を掻き分けなければならないが、実りを傷つける可能性もあるので、少なからず抵抗を覚えた。が、結局、ベルは田へ分け入ることにした。
目測をつけた場所へと、実りを傷つけないように注意しながら、中腰になり、穂を払い、根元を掻き分けてゆく。一歩進む、その度に、香ばしい稲の香りが流れてゆく。さわさわと穂擦れの音が耳をくすぐった。
秋も深まりつつあるというのに、ベルは額に汗していた。
この田だけで、一体何人の口を満たせるのだろうか。揺れる稲の穂を見ていると、何をしようとしていたのか分からなくなりそう。そして、焦りにも似た、いつものあの感覚がやってくる。もうすぐ冬が来る。全てを白く凍らせる、冬が。
眠気と疲労で視界は歪み、ベルの意識は次第に朦朧とし始めていた。
稲を掻き分け開いた、金色の空間の向こうに、いるはずのない弟がいた。
ベルは息を呑み、そして我に返った。
「ねぇちゃん、だれだぁ?」
麦わら帽子をかぶった年端も行かない少年が、首を傾げた。
「ああ、うん」ベルは目を覚ますように、頭を振った。「ちょっと落し物しちゃって」
「おとしもの?」
「うん、時計なんだけど」
「うーん」少年はちょっと考えると、北部訛りが強い言葉で言った。「見なかったなぁ」
少年はしゃがみこんで、小さな鎌を使い、稲の刈り取りを行っていた。自分の背丈と同じくらいの稲の穂を小脇に抱え、少しずつ稲を刈ってゆく。鎌を扱う手つきがぎこちなく、見ていてはらはらするほどだ。
「お手伝い、してるんだ?」
ベルの見立てでは、少年の年齢は労働には適さないのだが。
「うん」少年は手を止めずに言う。「とうちゃんが、眠り病にやられちまって。手が足りないんだ」
「眠り病……」
「お医者様の話では、魔獣の毒気にやられたんじゃねぇかって。眠ったまんま、もう一週間も起きねえんだ」
「お寝坊さんなのね」
「あはは、そうだなー」
父親が病気だというのに、少年は無邪気に笑っている。眠り病がどういうものか、理解していないのだろう。
眠り病は、その名が示すとおり、罹患したものは眠り続けてしまうという病気だ。軽度の症状であれば、二~三日で覚醒するという話だが、重篤になると、腐り落ちて死ぬまで眠り続けるという。少年の父親が一週間眠り続けているということは、すでに、回復の希望は薄いということなのだ。
いたたまれなくなって、ベルは顔を背けた。
「手伝おっか」
うつむいて、落穂を拾った。
地面に落ちた稲の穂は、凍れるように冷たかった。ベルは一心不乱にそれらを拾い集めた。これを口にして今日命を繋ぐ者も、明日はどうなるか分からない。空虚を拾い集めているような、そんな錯覚を覚えてしまう。それでも人は、その空虚を拾い集めないわけにはいかないのだ。
手を伸ばした先の地面に一つ、小さな影が落ちた。
「おい、なにやってんだ」
顔を上げると、目の前に、アークの不細工な顔があった。
アークは口をへの字に曲げ、腕組みしながら、いらいらと貧乏ゆすりをしていた。
「なによ、感じ悪いわね」
ベルは構わず、アークの下の穂を拾った。
「だから、何やってんだ。それは今やるべきことなのか? 俺達には他にやるべき事があるだろうが!」
「あっ、天使様だ!」
少年はアークを見ると、集めた穂も鎌も放り出して跪き、頭を垂れた。
「いや、いいから」
アークはそれに素っ気無く応えると、ベルを睨んだ。