人参
鞄にはいつもピーラーが入っている。もう4代目の緑のピーラー。使い物にならなくなる度に、いつも同じ100円ショップでこれを買う。私はいつからか、常にこれを持っていないと不安になってしまうのだ。しかし、このことを知っている人は誰もいない。大学の友人にすら秘密にしているのである。
おにぎり2つと人参9本を入れたカゴを持ちながらレジに並ぶと、前には疲れた顔をしたすっぴんの主婦が、これでもかというぐらいにカゴを一杯にして、引きちぎれそうになる右手を、ぷよぷよの左手で支えている。一番上には卵、その下には、冷凍食品が敷き詰められている。はたして今夜、この主婦は何を作るのだろうか。その謎は、冷凍ほうれん草2袋によって隠されていた。
私がレジにカゴを置くと、パートのおばさんは私をちらっと見て、睨みつけるように目を細めてからすぐに真顔に戻った。どうやら私はいつも大量の人参を買っていくことが理由で、顔を覚えられているらしい。明らかに不審そうに、馬鹿にしたような視線を0.2秒浴びせられた私は、千円札を取り出して、パートおばさんがそれを取ろうとした瞬間に「あっ、やっぱこっちで」と言って一万円札を手渡した。レイコンマニビョウで人は不愉快になるのだ。それをこいつは分かっているのかしら。尋ねてみたかったが、そんなことをすると、次来た時にどんな顔をされるだろう。唇をUの字にして口裂け女のように笑うのだろうか。ダリのように髭を立てて目を見開くのだろうか。いや、おばさんだから髭はねえか。と思いきや、うっすらと生えてら。
いずれにせよ、想像しただけで背筋に苛立ちを感じたので、私は愛想笑いを浮かべて、奪い取るようにお釣りを受け取った。
階段を上り、ひんやりとした坂に座った。滑り台である。鞄からピーラーを取り出して、ビニール袋から人参を2本取り出す。一本は左手に、もう一本は体育座りした脚の上に乗せた。いつものセッティングだ。暗くなった空には、蝙蝠が2匹、気が狂ったようにぐるぐると飛んでいた。私はそれをちらっと見て、少し笑って真顔に戻り、深呼吸して、丁寧に人参の皮を剥き始めた。剥き終わると、つるつるの人参を鞄に入れる。2本目を剥き終わる頃には、滑り台は橙色の川となって、私はそれを見て胸を躍らせた。そしてまた袋から2本取り出し、また同じように、一本を脚の上に乗せて、丁寧に剥いていく。
最後の一本がビニールに残るのを見て、私は思わず、ごめんねと謝った。早くほかのみんなと同じようにさっぱりさせてあげようと思ったのだ。そして丁寧に、でも素早く、極上のサービスによって、9本目の人参がつるつるになると、鞄の中、みんなと同じように寝転がせてあげた。
すっかり橙一色になった滑り台を見ながら、私はおにぎりを2つ食べた。こんぶ。たらこ。
ふと、少し髪が伸びすぎたかな、と思った。
家に着き、私はまず仏壇の前に座った。仏壇といっても、遺影や、お鈴、線香立てなどは置いていない。そこには、ただひたすらに、人参が山になっているのである。すべて私が剥いた綺麗な人参。みんな可愛くて食べることなど到底できないのだ。
私はその山の頂上に、さっき剥いた9本の人参を一本ずつ慎重に置いていった。ちょっぴり大きくなった山を見て、なんだか微笑ましい気分になって、これがもしや親心というやつか、やつなのか、と思った。そう思った途端に、私は、両手を広げ、その人参の山に抱きついた。山は少しずつ崩れ、仏壇から落ちた人参が、床一面に広がっていく。抱きつく力を強めるほどに山は崩れ、数本の人参しか抱きしめられなくなると、今度は、寝転がる人参一つ一つを拾い上げ、それら全てにキスをした。
それが済むと、私はその場で大の字になって、全てがオレンジ色の世界を想像してみた。空も海も山もオレンジの世界。オレンジのものを獲って、オレンジのものを食べる世界。そこではカメレオンが自分の色を変えることもなければ、身を隠す必要もない。全ての人間が同じ色をした世界。一つが全てに溶け込む世界。なんだか温かい世界。私はいつのまにか、そんな想像の毛布のなかで眠り込んでしまった。
翌朝、寒くて目を覚ました私は、時計を見て慌てて立ち上がり、メイクも着替えも昨日のままブーツを履いて家を飛び出した。私のアパートは最寄りの駅まで5分足らずなので、すぐに駅に着いたが、定期をかざそうとした時に、ふとあることを思い出し、私は走って家に戻った。
家に着くと、慌てて鍵を開け、私は「いってきます」と言って、鍵を閉めた。
人参たちに挨拶をするのを忘れていたのである。
教室の扉を開けると、既に授業は始まっていた。私の苦手な英語の授業である。恐る恐る教室に入ると、ネイティブの講師であるミッシェルが、メガネの奥から軽蔑したような視線を送ってきた。私は目を合わさずに、「アイムソウリイ。アイムレイト。」と小さく言って、一番後ろの席に座り、教科書を広げた。教科書には4枚、人参のシールが貼ってある。
私はミッシェルが何を言っているのかほとんど理解できず、何をやる時間なのかわからなかったので、シールを優しく撫でながら、「ディスイズアキャロット」と頭の中で繰り返すだけで一時間を過ごし、チャイムが鳴った。
ちゃーんとーやーれー、ちゃーんとーやーれー
私には、チャイムがそう歌っているように聞こえた。
脳内に「ディスイズアキャロット」が無限リピートされている状態で教室を出ると、後ろから「朝美、おはよう」と聞き覚えのある声がした。振り向くと、鍋子が重そうな鞄を背負って立っている。鍋子と私は大学に入ってすぐに友達になり、いつも一緒にいる仲である。2人は喋りながら次の教室に向かった。
「おはよう。鞄重そうだね。何入ってるの」
「ああこれ、これは服だよ。最近野宿にはまっててね」
「えーっそんなこと初めて聞いたよ。いつから、ってかじゃあ家帰ってないの」
「うん。まだ二日目だけどね。これから出来るだけずっとやるつもりなの」
「そうなんだ。でも家には帰りなよ。鍋子、実家でしょ。親、心配するよ」
「大丈夫、大丈夫。一応毎日、「生きてる」ってメールしてるし」
階段を上り、教室に入ると、鍋子は鞄を机の上に乗せ、ふう、と息を吐いた。それを見て、私は笑ってしまった。そこまでして野宿をする鍋子が、何だか不思議で面白かったのである。鍋子は背伸びをすると、鞄から充電器を取り出して、教室の端のコンセントでiPhoneを充電した。
「野宿だと、充電するとこ無いからね」
授業が終わると、鍋子はまだ授業があるというので、私は一人で家に帰ることにした。
「ただいま人参くん」
私は急いでブーツを脱ぎ、人参だらけの床にダイブした。その時ちょうど人参の頭がみぞおちに入ってしまい、咳込んで、しばらくの間、悶え苦しむことになってしまった。けれども私は笑っている。ずっと笑っている。足をバタバタさせながら、人参くんといちゃついているのである。そこから5時間ほど過ごした頃、ぐううとお腹が鳴り、そこで初めて空腹に気がついた。冷蔵庫を開けてみたが、プリンしか入ってなかったので、家の近くのスーパーに行くことにした。いつものスーパーである。
「いってきます」
おにぎり2つと人参9本を入れたカゴを持ちながらレジに並ぶと、前には疲れた顔をしたすっぴんの主婦が、これでもかというぐらいにカゴを一杯にして、引きちぎれそうになる右手を、ぷよぷよの左手で支えている。一番上には卵、その下には、冷凍食品が敷き詰められている。はたして今夜、この主婦は何を作るのだろうか。その謎は、冷凍ほうれん草2袋によって隠されていた。
私がレジにカゴを置くと、パートのおばさんは私をちらっと見て、睨みつけるように目を細めてからすぐに真顔に戻った。どうやら私はいつも大量の人参を買っていくことが理由で、顔を覚えられているらしい。明らかに不審そうに、馬鹿にしたような視線を0.2秒浴びせられた私は、千円札を取り出して、パートおばさんがそれを取ろうとした瞬間に「あっ、やっぱこっちで」と言って一万円札を手渡した。レイコンマニビョウで人は不愉快になるのだ。それをこいつは分かっているのかしら。尋ねてみたかったが、そんなことをすると、次来た時にどんな顔をされるだろう。唇をUの字にして口裂け女のように笑うのだろうか。ダリのように髭を立てて目を見開くのだろうか。いや、おばさんだから髭はねえか。と思いきや、うっすらと生えてら。
いずれにせよ、想像しただけで背筋に苛立ちを感じたので、私は愛想笑いを浮かべて、奪い取るようにお釣りを受け取った。
階段を上り、ひんやりとした坂に座った。滑り台である。鞄からピーラーを取り出して、ビニール袋から人参を2本取り出す。一本は左手に、もう一本は体育座りした脚の上に乗せた。いつものセッティングだ。暗くなった空には、蝙蝠が2匹、気が狂ったようにぐるぐると飛んでいた。私はそれをちらっと見て、少し笑って真顔に戻り、深呼吸して、丁寧に人参の皮を剥き始めた。剥き終わると、つるつるの人参を鞄に入れる。2本目を剥き終わる頃には、滑り台は橙色の川となって、私はそれを見て胸を躍らせた。そしてまた袋から2本取り出し、また同じように、一本を脚の上に乗せて、丁寧に剥いていく。
最後の一本がビニールに残るのを見て、私は思わず、ごめんねと謝った。早くほかのみんなと同じようにさっぱりさせてあげようと思ったのだ。そして丁寧に、でも素早く、極上のサービスによって、9本目の人参がつるつるになると、鞄の中、みんなと同じように寝転がせてあげた。
すっかり橙一色になった滑り台を見ながら、私はおにぎりを2つ食べた。こんぶ。たらこ。
ふと、少し髪が伸びすぎたかな、と思った。
家に着き、私はまず仏壇の前に座った。仏壇といっても、遺影や、お鈴、線香立てなどは置いていない。そこには、ただひたすらに、人参が山になっているのである。すべて私が剥いた綺麗な人参。みんな可愛くて食べることなど到底できないのだ。
私はその山の頂上に、さっき剥いた9本の人参を一本ずつ慎重に置いていった。ちょっぴり大きくなった山を見て、なんだか微笑ましい気分になって、これがもしや親心というやつか、やつなのか、と思った。そう思った途端に、私は、両手を広げ、その人参の山に抱きついた。山は少しずつ崩れ、仏壇から落ちた人参が、床一面に広がっていく。抱きつく力を強めるほどに山は崩れ、数本の人参しか抱きしめられなくなると、今度は、寝転がる人参一つ一つを拾い上げ、それら全てにキスをした。
それが済むと、私はその場で大の字になって、全てがオレンジ色の世界を想像してみた。空も海も山もオレンジの世界。オレンジのものを獲って、オレンジのものを食べる世界。そこではカメレオンが自分の色を変えることもなければ、身を隠す必要もない。全ての人間が同じ色をした世界。一つが全てに溶け込む世界。なんだか温かい世界。私はいつのまにか、そんな想像の毛布のなかで眠り込んでしまった。
翌朝、寒くて目を覚ました私は、時計を見て慌てて立ち上がり、メイクも着替えも昨日のままブーツを履いて家を飛び出した。私のアパートは最寄りの駅まで5分足らずなので、すぐに駅に着いたが、定期をかざそうとした時に、ふとあることを思い出し、私は走って家に戻った。
家に着くと、慌てて鍵を開け、私は「いってきます」と言って、鍵を閉めた。
人参たちに挨拶をするのを忘れていたのである。
教室の扉を開けると、既に授業は始まっていた。私の苦手な英語の授業である。恐る恐る教室に入ると、ネイティブの講師であるミッシェルが、メガネの奥から軽蔑したような視線を送ってきた。私は目を合わさずに、「アイムソウリイ。アイムレイト。」と小さく言って、一番後ろの席に座り、教科書を広げた。教科書には4枚、人参のシールが貼ってある。
私はミッシェルが何を言っているのかほとんど理解できず、何をやる時間なのかわからなかったので、シールを優しく撫でながら、「ディスイズアキャロット」と頭の中で繰り返すだけで一時間を過ごし、チャイムが鳴った。
ちゃーんとーやーれー、ちゃーんとーやーれー
私には、チャイムがそう歌っているように聞こえた。
脳内に「ディスイズアキャロット」が無限リピートされている状態で教室を出ると、後ろから「朝美、おはよう」と聞き覚えのある声がした。振り向くと、鍋子が重そうな鞄を背負って立っている。鍋子と私は大学に入ってすぐに友達になり、いつも一緒にいる仲である。2人は喋りながら次の教室に向かった。
「おはよう。鞄重そうだね。何入ってるの」
「ああこれ、これは服だよ。最近野宿にはまっててね」
「えーっそんなこと初めて聞いたよ。いつから、ってかじゃあ家帰ってないの」
「うん。まだ二日目だけどね。これから出来るだけずっとやるつもりなの」
「そうなんだ。でも家には帰りなよ。鍋子、実家でしょ。親、心配するよ」
「大丈夫、大丈夫。一応毎日、「生きてる」ってメールしてるし」
階段を上り、教室に入ると、鍋子は鞄を机の上に乗せ、ふう、と息を吐いた。それを見て、私は笑ってしまった。そこまでして野宿をする鍋子が、何だか不思議で面白かったのである。鍋子は背伸びをすると、鞄から充電器を取り出して、教室の端のコンセントでiPhoneを充電した。
「野宿だと、充電するとこ無いからね」
授業が終わると、鍋子はまだ授業があるというので、私は一人で家に帰ることにした。
「ただいま人参くん」
私は急いでブーツを脱ぎ、人参だらけの床にダイブした。その時ちょうど人参の頭がみぞおちに入ってしまい、咳込んで、しばらくの間、悶え苦しむことになってしまった。けれども私は笑っている。ずっと笑っている。足をバタバタさせながら、人参くんといちゃついているのである。そこから5時間ほど過ごした頃、ぐううとお腹が鳴り、そこで初めて空腹に気がついた。冷蔵庫を開けてみたが、プリンしか入ってなかったので、家の近くのスーパーに行くことにした。いつものスーパーである。
「いってきます」