僕について
思った通り何も出来ないまま、とうとうエスカレーターに並ぶ列に追いついてしまった。僕は最後尾、カスミちゃんはその前に並んだ。この時僕は今までで最もカスミちゃんと接近したが、この後何もなく別れると思うと虚しい接近であった。確かに偶然に対して理想を抱いてはいたが、それは空想に限りなく近い理想なのであって、いざ真実になり得る機会を獲得したとしても、それに対して身体が動くかと言えば別の話なのである。この後もしかしたら起こるかも知れない何かのこと、諦めたくないが何が出来る訳でもないという歯がゆさ、帰宅後すぐに行うであろう虚しい自慰のことなどで僕は頭がいっぱいになった。
そうこうする内に列は進み、カスミちゃんがエスカレーターの段に乗ったのに僕も後から続く。まさか改札口を出てから更に後を付ける訳にもいくまい。大体もし付けたとして何が出来る訳でもないのだ。僕は後ろに誰も並んでいないのをちらりと確認すると、丁度顔の高さに来たカスミちゃんの肩掛けの鞄に鼻を近づけ、すっと息を飲み込んだ。どんな匂いも無かったが、代わりにカスミちゃんの本当の名前は『サカキバラ ツバキ』であることが分かった。カスミちゃんの鞄には革で出来た定期入れがくくり付けられており、その表面は透明なビニールになっていて、中に入れられたICカードに片仮名でそう印字されているのが見えたのだった。
もしこの定期入れが鞄から外れて、それを僕が拾って届けたとしたら、カスミちゃんに自然な形で恩を着せることが出来る。親切にも落し物を届けてくれる僕になることが出来る。でも僕はツバキじゃない、ツバキなんてちっとも似合わない、全然ツバキっぽくない、とそればかりを頭の中で繰り返し考えていた。