僕について
大学から家に帰る電車には、少しの間地下を通る区間がいくつかあった。地下を通っている最中は携帯電話の電波が途切れてしまうので、その間はオンラインな操作が出来なくなる。車内が陽の光を失うとすぐに携帯電話を鞄へしまった女の人がいたことに気付いた僕は、ああ例えばこの人が例の人だったならというような妄想に耽った。特にその人が好みの見た目をしているだとか、何となく感じるものがあるだとか、そういうことではなくてたまたまちょっとのきっかけで見つけ出した人の方が案外将来近しい存在になるのでは? あるいはそうなった方が面白いのでは? のようなことを僕はよく思うというだけのことであり、その人もふわりとした装飾と過度な洗濯の後に残ったような淡い色の集まった服装が何となく女子らしく見えるだけで、別段僕の心に何かしらの想いを訴えかけてくることもなかった。ただ僕はそういう人こそ実は求めている存在であったりするのかも知れない、というような偶然というか縁というか、神の力が加わったとでも言うべきことにどういう訳か期待を寄せる質なのであった。
彼女は先頭車両の最も先頭の座席に座る僕の正面から少しずれたはす向かいの座席に座っていた。恐らく同年代で、いかにも僕と同じように大学からの帰宅途中のように見える。膝の上に乗せた肩掛けの鞄に携帯電話をしまってからは、手持無沙汰に爪の先を見つめるなどしていた。彼女をじっと見つめながら、例えば彼女が例えば彼女がと色々なことを考えていると、数分後に訪れるはずである別れがどうしようもなく勿体ないもののように思えてくる。ただ僕は目に付いたどんな相手にだって同じようなことを思うものだから、結局は誰でも良いのだろう。これは相手を選んでいる余裕もない程に切羽詰まっていることの表れであるのかも知れないし、逆に言えば真剣さが湧かない程に余裕のあることのそれであるのかも知れなかった。そもそも親密な異性を獲得したいという気持ちは僕の話を聴いてほしいという理想とは別の軸で動いていることなのかも知れなくて、ただ親密な異性に僕の話を聴いてもらいたいということ自体は僕が求めるものの究極の形として僕の中にあった。
僕は彼女に「バイノーラル録音って知ってる?」と聞くところを想像する。彼女は「なにそれ?」と言うだろう。知らないし興味もないという意味を込めたような浅い息で吐き捨てるそれではなく、一体それがどういうものなのか知りたいと思ってくれる、思っていなくても思わせてくれるような、そんな優しい言い方で返してくれる、くれたら嬉しい。そして僕はぺらぺらとバイノーラル録音の説明を済ませ、彼女もへえと感心したところで「本題はここじゃないんだよ」と話をひっくり返す。彼女はきっと驚いて、仮にバイノーラル録音の説明が退屈だと思っていたとしても、ここで一気に関心を引かれる、そうなったら最高だ。そして僕は一生懸命に、僕はこんなこと考えちゃう人間なんだよね、僕はこんなこと考えちゃう人間なんだよね、と伝えるのだ。こんな話を聴いてくれる人が僕の妻だったらどんなにいいだろう。妻になってくれるということはつまり、このような僕を承認してくれたことの証であるから、僕は安心して僕を伝えることが出来る。僕は彼女がもしも僕にとってそういう存在になってくれるのならという妄想が止まらなくなる。彼女との別れが、一層惜しまれるものになる。しかしながらそれもいつものことであるから、だからと言って何がどうという訳でもなかった。
僕は彼女をカスミちゃんと名付けることに決めた。彼女の服にしつこくまとわりつくひらひらした部位が、カスミソウの花のようだと思ったのだ。日本的な平たい顔立ちもその印象にぴったりだった。見知らぬ誰か、殊に僕がカスミちゃんに対して望むことと同じような理想を抱いた女性に名前をつけてみることが、僕にはよくあった。名前を呼ぶことは、たった一人あなたに聞いてもらいたいという気持ちのために、僕にとって大変重要な理想なのである。
地下区間を抜けると、思い出したように電波が戻る。僕が降りる駅は地下を抜けた次の駅であるから、カスミちゃんとの別れももう間もなくであった。僕は懇々と自分のことをカスミちゃんに言って聞かせること、それをカスミちゃんがうんうんと聴いてくれること、そしてその中身を少しだけ褒めてくれることを、足元をぼんやりと見つめてじっとしているカスミちゃんに想像していたが、カスミちゃんは電波が戻ったことに合わせ、鞄から携帯電話を取り出してしまった。僕はカスミちゃんが僕の話を聞きながら携帯電話をいじるような人だったら嫌だなと思った。
電車がいよいよ駅のホームへ滑り込み始めると、ああカスミちゃんともここでお別れか、と少し淋しい気分になった。しかしその淋しさは幾度も経験してきているものであるし、それだっていつもたった一瞬のものであった。元々カスミちゃんは僕にとってどんな存在だった訳でもない。街で偶然すれ違う人、その人と同じで、ただすれ違うのに時間がかかっただけのことなのである。しかしながら別れに対する淋しさとは別に湧いている勿体なさは、いつも帰宅して一旦落ちつくまで何とはなしに僕の心にささくれを残すのであった。折角出会ったのに、ここで別れるのは勿体ない。彼女こそが僕にとってかけがえのない存在であるのかも知れないのに。僕はそういう偶然に対して理想を抱く質なのである。
先頭車両に乗っているので、ホームの一番端に到着する。ここは改札口のある階へ昇るエスカレーターから最も遠いところであったが、それだけに混雑を避けられる場所でもあった。帰宅時は先頭車両に乗ることが僕の習慣であり、僕はいつも一番後列から改札を抜ける列に続いた。この車両からこの駅で降りる人はいつも僕くらいのものだったが、僕が席を立とうとすると、なんとカスミちゃんも立ち上がった。それを見た僕は一瞬自分が立ち上がることを忘れてしまい、電車の扉が開く音に驚いて飛び上がり、慌てて車外へ出た。
僕はこの日、以前のどんな時よりも強く、彼女こそが僕にとってかけがえのない存在になるべき人であるのかも知れないということを思った。前を行くカスミちゃんと五メートル程の距離を保ちながら、僕は勿体ない、このまま終わらせてしまうのは絶対に勿体ない、と考え続けていた。しかしながら僕はまだカスミちゃんに認識すらされていないのに、一体どのように接触すれば良い、何て声をかければ良い、大体僕に、そんなナンパ紛いのことが出来る勇気があるのか。問題は何をどうするか、そして出来るか出来ないか、であった。改札口から最も遠いとは言え、百数十メートル程のものである。焦れば焦る程早く何か、とにかく何か行動を起こさなければという気持ちが湧き上がって来るが、ただそう思っているだけで結局は何も出来ないのだろうということも半ば確信に近い形で理解していた。僕はほとんど未練によってカスミちゃんの後を追った。