在ル、ソラ
翌日、売店のパンは売れ残らなかった。
「今日は、何も持っていない」
「…そっか」
わかる。彼はがっかりした顔をしている。
表情が見えずとも同時に俯いてしまえば、同じことだよな。
「痛っ」
「どうした」
ブランコの鎖に指が挟まった。これまた懐かしい…
鎖の錆が指に付いて、傷痕がよくわからないんだ。
自分の指を眺めていると、青年が正面に立ち、青年の影で手元が暗くなる。
「かして」
俺の手を握ると、さっき挟んだ傷痕を、青年は舌先でぺろぺろと舐め始めた。
「な…」
いきなりのことで頭が動転する。
戸惑っているうちに彼は指を舐め終え、錆で見えなかった傷痕が見えていた。
「にがい」
「…なに、やってんだよ汚いだろ」
ハンカチで彼の口を拭うと、嫌がって手で避けられた。
「んぅー…」
青年は唸ると、今度はブランコに座る俺の膝に頭をすり寄せてきた。
おそらく、地面に座り込む彼のちょうど目の前に、俺の膝が在ったからなのだろう。
いつまでたっても青年は頭をすり寄せるのをやめなかった。
収拾がつかず、「家に帰る」と俺が呟くと、青年は立ち上がった。
そしてまた、俺の背中をじっと、見送っていた。
翌日、昨日の一件で彼への疑問が増えすぎた俺は、わざわざ公園を通らない道を選んで家に帰った。
一週間が経ち、毎日彼のことが気になるのに公園を避けて帰る自分に自棄がさした俺は、意を決して公園に向かった。
売店のパンは売れ残らなかったので、途中コンビニでおにぎりを買った。
公園に差し掛かったところで、ひとまずブランコにうずくまる彼の姿を見て安堵した。
近づいても、やはり起きる気配はない。
彼が座るブランコの下、地面の土が濡れて色が変わっている。
白く、俯く顔に触れると、青年の頬が濡れていた。
「泣いている…のか」
頬から目へと指を伝わせ、水滴を拭う。
「んぅ…」
「おまえ…」
「ひさしいな」
「額が熱いぞ」
「いつもとかわらない」
思えば先週の、青年に舐められた指がひどく熱く感じた。
青年の手を握り引っ張ると、彼はブランコの前にしゃがみ込んだ。
青年は体重など、感じないほどに軽かった。
「…どこへいく」
「いいから」
「だめだ。僕は歩けない」
俺は青年の前に背中を向けて屈んだ。
「早く乗れ」
「……?」
「首に手を回せ」
青年は言われたとおりに首に手を回し、俺は立ち上がり彼を背中に抱えて歩き出した。
彼の身体が触れる背中がひどく熱い。
そう思っていると、「おまえのせなかはつめたくてきもちがいい」と呟くのが聞こえた。
「おまえのてから、こめのにおいがする」
「おまえが言ったんだろう、米がいいと」
「おまえっていうな」
「……おまえこそ」
俺の家が見えた。とりあえずベッドに寝せて、おにぎりはその後だ。
あともう少しと、背負う体制を再度正し、俺は青年に聞いた。
「おまえ、名前は」
首に回された彼の腕が温かい。
俺の背中に身を委ねる彼は、笑っているのだと何故か思った。
「……ソラ」
「っ……」
背中の熱が消え、振り向くと、ソラは消えていた。
家の玄関先の灯りがついた。
*****
学校は夏休みに入り、夕刻に家の縁側で陽の落ちるのを眺めるのが気持ちよく、習慣化している。
そして最近、家の庭に顔を見せるお客がいる。
真っ白い毛並みに、薄い緑の瞳をした猫だ。
前に、学校で食べ残したパンをやったら喜んで食べた。それから味を占めたのか毎日くるようになった。俺の顔を見るなり、なーなーと泣いては食べ物をねだる。
「今日はパンは無いんだ…けど、食べるか」
そう言って食べかけのおにぎりの米粒を落とすと、いつもより勢いよく食らいついた。
「なんだよ。米のが好きなら、そう言えよな」
なんて、一方的な会話をする。
「………おまえは、ソラだな」
なんとなく口にすると、聞いたことのないほどに声を張り上げて鳴いた。
だから俺は、そいつをソラと名付けた。
「空ー、ちょっと運ぶの手伝ってー!」
「…はいはい」
玄関先から母親に呼ばれ、俺は縁側から立ち上がる。
ソラが首を傾げて、まっすぐな瞳で俺を見ていたから、
「似合わない名前だろ。お前とは違ってさ」
と、俺は答えた。
*end*