十のちいさな 小さなものがたり 1~10
3 思いを乗せて
部屋の壁にもたれさせて置かれている、ランドナー。
それを見て、登紀子は何度溜息をついたことか。毎日毎日である。1年以上もの間である。いつかは処分しなければ・・・もらってくれる人はいるのだろうが、未だ手放せないでいる。乗り手のいない自転車。まだ一度も外を走っていない、自転車である。
「定年なったらなぁ、日本全国、ツーリングしよ、思てんねん」
あと1年勤めれば定年となる頃に、夫の謙はそう打ち明けた。
「一緒に行こうや、なっ」
と誘ってくれたのだが、いい、とそっけなく一言で断ったのである。実際、遠出するのが面倒くさい、と思うようになっていた。
自転車に跨った状態でのサイズを取り、いろいろな要望を出して、そのランドナーが完成するまでに半年を要した。六十万円もかかっている。
サイクルウェアで身を包むために、ダイエットに励みだしていた。
「こんな腹突き出しとって、かっこええウェア身にまとうても、様にならんやろ」と。
身体は願い通りに痩せてきた。同時に、疲れやすくなってきていたのである。なんとなく受けた血液検査。その時にはすでに、手遅れになっていた。
リンパ腫。
そして、楽しみにしていた自転車の完成を待たずに・・・。
心の整理がてら、謙の持ち物がいっぱい詰まっている倉庫を整理しようと思い立ち、数年ぶりに倉庫の扉を開けると、前輪をはずし、チューブラータイヤも取り外した状態の登紀子のロードバイクが、大きな荷物に囲まれて奥の方に押し込まれているのを見つけた。その存在は、すっかり忘れていたのだ。
結婚前に、謙が一時所属していたレーシングチームを持つ自転車屋に作ってもらった、登紀子のサイズに合わせた代物だ。
自転車に乗ること自体が不得手であったにもかかわらず、ツーリングに誘われて即座にOKを出した。ドロップハンドルに慣れるようにと、そして、ペダルのストラップにスムーズに足を入れられるようにと、出来上がってきてからこっそりと、練習を重ねたものだ。
作品名:十のちいさな 小さなものがたり 1~10 作家名:健忘真実