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かいかた・まさし
かいかた・まさし
novelistID. 37654
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オシンドローム

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一九八三年 夏
 
「おしんの「しん」は、辛抱のしん!」
 それは、その年の流行言葉だった。おしんとは、NHKの朝の連続ドラマに登場した主人公の女性の名前だ。明治から昭和までの時代をさまざまな苦難を乗り越えながら生き抜くおしんの姿に日本中が大感動した。おしんは、十歳にも満たない幼いときに、家族の貧しさゆえに米俵と交換に奉公に出されてしまう。
 小さい体の背に奉公先の赤ん坊を抱え子守する姿は、苦難の人生を生き抜くおしんの象徴であった。今の時代なら誰もが学校に行って勉強をする年頃に、家族のため必死になって働かなければならなかったのだ。
 昔の子供たちは、辛抱強くてえらい。それに比べ、今の子供たちは恵まれ過ぎて、わがままでどうしようもない。おしんに見習って、辛抱強くなりなさい!
 そんな言葉が、巷に飛び交った。 
 中田俊秀は、その頃十七歳の高校二年生だった。頭を丸刈りにした野球部に所属する硬派な高校生。毎日六時間にも及ぶ部の特訓も、はやりの「辛抱」の精神で頑張っているつもりであった。純情で一途な野球少年であった。
 野球を始めたのは、小学生のリトルリーグの時からであった。守備のポジションは、ピッチャーである。中学の時にエースに抜擢され、県内の地区大会でチームを準優勝させた実績がある。その実績を買われ、県内でも屈指の野球の名門であり、また、進学校として名の知れた県立K高校に推薦入学できた。
 K高校は、創立八十年の伝統があり、毎年国立や私立の名門大学へ合格者を輩出していた。野球に関しては、毎年、県の予選で準決勝か決勝までいくほど実力のあるところだ。
 だが、惜しくも今まで甲子園出場は果たしたことがない。だからこそ、K高校は俊秀のような優秀な選手を集め、進学のみならず野球でも格を上げ文武両道を確立しようとしていた。そのおかげで俊秀は、成績がさほど良くはないにもかかわらず、K高校に入学ができた。
 俊秀は心に決めていた。K高校のためにも甲子園出場を果たしてやる。そして、甲子園で大活躍をしたら、目指すはプロ野球だ。
 そのためには必死になって体を鍛えなくてはならない。K高校の野球部ではとりあえずエースの座にあるが、全国レベルでは、まだまだ自分は未熟なレベルにある。野球で特に重要なのは、足腰と腹筋である。バッティングにも、ピッチングにも体全体を支え正しいフォームを形付ける下半身の力は重要なのである。
 俊秀は毎日、日課として兎飛びでグラウンドを十周、腰にタイヤをつなげたロープを巻いてタイヤ二輪を引っぱり走るトレーニングを五週している。腹筋は、地面に仰向けになった上で部員に足首を支えてもらいながら上体を起こすという練習を毎日百回こなす。また、ピッチャーとしてより速い球を投げられるようになるため、肩の筋力増強のため毎日腕立て伏せ百回、懸垂百回を行なっている。
 特に最近は、ピッチングの速度が伸び悩み、克服課題の一つとなっている。毎日休まずこれらの日課を繰り返している。
 かなり辛い練習だが、これだけの辛抱ができなければ自分はけっして強くなれないと信じていた。野球部の監督も、先輩も、同学年の部員も、一年生の後輩も、みんな同じことを信じている。だから頑張っている。俊秀の尊敬する父親も言っている。
「辛抱すれば、いつか報われる」と。
 俊秀の家庭は、父親が大手一流商社の会社員で課長職についている。母親は、典型的な中年の専業主婦だ。そして、俊秀は、その両親の一人息子である。父、源太郎は、年齢四十二歳、頑固で檄を飛ばすと恐い男である。時には俊秀を殴り、食事の置かれた卓袱台をひっくり返すことがある。
 俊秀と同じく昔は、高校球児だった。甲子園の夢は果たせなかったが、かつては俊秀と同様学校のエースピッチャーとして活躍したことがある。息子の自分に自らが果たせなかった甲子園の夢を叶えて貰いたいと思っているのだった。
 母、恵津子は、良妻賢母という言葉がぴったりの女性であった。優しく、女らしく、父親と自分のために、おいしい弁当を作ってくれる。そして、まるでおしんのように辛抱強いところがある。俊秀にとっては女性の理想像だった。
 


「九十四、九十五、九十六」
 放課後になり俊秀は、いつものように懸垂の練習をしていた。声を出し回数を数えながら、鉄棒に捕まり両腕で体全体を引き上げる。
「九十七、九十八、九十九、」
「おい、どうしてそんなくだらないことができるんだ?」
 思わず気が抜けて手を鉄棒から放してしまった。話しかけたのは、同級生の遠藤誠であった。父親が開業医で金持ちのお坊っちゃんという風体。成績優秀で学年一の優等生であるが、そのせいかクラス一の気取り屋で、俊秀にとっては虫の好かない男であった。
「くだらないこととは何だ!」
俊秀は腹が立って怒鳴った。あともう少しで百回目が終わるところだったのだ。
「どうして、そんなに体を痛めてまで、頑張るんだ?」
と遠藤が澄まし顔で言う。
「体を痛めても、それだけ鍛え上げれば強くなれるんだ。辛抱して強くなれば、絶対、甲子園に行ける。おまえのようなひ弱な奴には分からないだろうがな」
 そう言われても遠藤は相変わらずの澄まし顔だ。遠藤は、顔が青白く痩せ細った体格をしている。ひ弱という言葉がぴったりの男だ。
「辛抱していればえらいというわけか。おしんの受け売りか! じゃあさ、今の若者、君と僕に限らず、みんなえらいということになるな。理不尽な校則と、受験地獄に日々戦っているんだしな。みんな立派な辛抱をしているんだぜ!」
「うるせえな! 練習の邪魔だ! とっとと消え失せろ」
 俊秀は、さらに怒鳴った。
「はい、はい」
 遠藤は、しらけた表情を見せながらその場を立ち去った。鞄を抱え家に帰っていくところのようだった。そのついでに自分をからかいに来たのかと思うと、俊秀は怒りがおさまらなかった。
 遠藤の後ろ姿を見ながら、俊秀はふと思った。遠藤の髪の毛だ。新学年に入って三ヵ月近くになるのに、あいつは髪の毛を全然切った様子がなく伸びっぱなしだ。伸びに伸びて耳を覆い肩まで毛がかろうとしている。
 まずいことだ。担任のガマタから文句言われるに決まっている。ガマタとは、ガマガエルに似ているからそのあだ名がついた俊秀のクラスの担任、国語教師のだ。蒲田は、学年の生活指導担当だけあって校則には恐ろしくうるさい。
 抜き打ちの持ち物検査はする。女子のスカート丈の長さ、シャツのボタンは暑くとも首元まで全部とめてるか、靴下の色、筆箱の色、もちろんのこと髪の毛の長さもだ。校則では、女子は肩にかかるまで、男子は調髪で後ろを刈り上げにし、髪の毛が耳と眉毛にかかってはいけないとなっている。部の規則で常に坊主頭の俊秀にとってはどうでもいい決まりだが、遠藤の髪の長さは明らかに校則違反であり、注意を受けることになるのは確実だ。
 今までは、遠藤が学年一の優等生ということもあって、少々髪の毛が伸びていても、ガマタは今まで目をつぶってきたようだったが、あそこまで伸びると大目に見るにも限度がある。虫の好かない奴だが、俊秀は何だが、遠藤のことが心配になってきた。