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天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~

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 お璃久はふと歩みを止めた。往来に面した仕舞(しもた)屋の軒先の紫陽花の蒼がしっとりと雨露に濡れている。空を見上げると、雨上がりが嘘のような真っ青な空が涯(はて)なく続いている。紫陽花はその青空のいろをそのまま写し取ったようであった。
 お璃久は眼を細めて眩しい水無月の空を見上げた。梅雨の合間の光溢れる夕刻のひとときである。
 と、道の向こうから数人の子どもが群れて走ってきた。
「異人、異人~」
「見ろよ、こいつらの眼、変な色をしてるぜ」
「化け物だ」
「やーい、化け物、近づくと、取って食われちまうぞ」
 上は十歳から下は五、六歳と年齢も性別もまちまちの子どもたちである。その数人の子どもが取り囲んで他の子どもを苛めているようであった。
 お璃久は眉をひそめた。弱い者苛めはお璃久のいちばん嫌いなことだ。お璃久は少し息を吸うと、精一杯声を張り上げた。
「こらっ、あんたたち、何をしてるの?」
 いちばん年かさらしい男の子が振り向いた。
「こいつ、化け物なんだぜ」
 お璃久は男の子が指さした方を見た。
 悪童どもがぐるりと囲んだ輪の中に二つ、うずくまる人影が見えた。
 子どもが苛められているのかと思ったが、一人は大人のようだ。その大人が子どもを庇うように腕の中に抱え込んでいる。
「あんたら、恥ずかしいと思わないの。寄ってたかって弱い者苛めをして」
 お璃久が言うと、別の八歳くらいの少年が言った。
「化け物を化け物と言って、どこが悪いんだよ?」
 お璃久は絶句した。
「とにかく、すぐに止めなさい」
「ケッ、口うるさい女だぜ」
 親分格らしい年長の少年が言い、〃行くぞ〃と顎をしゃくると、他の子どもたちもふて腐れた顔で不承不承ついていった。
「全く、まだ子どものくせに、口だけは一人前になって」
 お璃久は溜め息を吐いた。見れば、うずくまっていた二人が立ち上がるところであった。
 一人は二十五、六の男で、もう一人は七、八歳くらいの女の子であった。
 男となにげなく眼が合った刹那、お璃久は息を呑んだ。ひとめ見て違う人種だと判った。
 時に翠玉色にも見える形の良い瞳は、元々は青みのかかった色素の薄い茶色だが、見る角度によって様々に色を変えるようだ。
 彫りの深い顔立ちは、細工師が彫り上げたように完璧に整っている。黄金(きん)いろの夕陽の光の加減か、栗色の髪の色が金褐色に輝いて見えた。その金色の髪が男にしてはやや白い肌に映えている。
 美しい男であった。やい、美しいというより、きれいと言った方が正しいかもしれない。とにかく、お璃久はこれまでの二十年余りの生涯で、このようなきれいな男といったものを見たことがなかった。
 彼女の良人卯吉もなかなかの男ぶりだが、この眼前の男は神が気まぐれを起こしたのではないかと思うほどの、希有な美貌である。
 たとえて言うなら、透き通る月の光のような、冷たく澄んだ美しさであった。
 あの悪童どもが何故、この男を化け物呼ばわりしたかを、お璃久は瞬時に悟った。
 男は俗に〃異人〃と呼ばれる外国人であった。その容貌からすれば、鎖国を頑なに守っている日本と唯一取引のある阿蘭陀(オランダ)辺りの人間ではない。いつか話に聞いた金髪碧眼の人間が住むという亜米利加(アメリカ)や英吉利(イギリス)の生まれかもしれない。
 男の蔭からおずおずと女の子が出てきた。この子も髪の毛も瞳も茶色で、男ほどではないけれど、ひとめで純粋な日本人ではないことが判る。まだ幼いが、人形のような美少女である。眼許、口許が男と写し取ったように見えるのは、二人が父娘なのかもしれない。
「助けて下さって、ありがとう」
 男が小さな声で言って頭を下げた。
 流暢な日本語である。外見は異国人だが、生まれ育ちは日本なのだろうか。
 と、男は淡く笑った。
「このような見かけをしていますが、私は日本人です」
「―」
 お璃久はうす赤くなった。どうやら、相手はお璃久の心を読んでいたようである。
「ごめんなさい」
 男が首を振った。
「あなたが謝ることはありません。私が行くところは、どこでもいつもそうです」
 お璃久が小首を傾げる。
 男が淡々と言った。
「化け物呼ばわりされるのは慣れています」
 それはひどく儚げな様子で、何もかもを諦めてしまったような口ぶりだった。
 男は少女に向かって言った。
「歩けるか」
 子どもが小さく頷く。男は少女の手を引いて歩き出そうとした。と、少女の小さな身体がゆらりと揺れた。
 男が慌ててか細い身体を抱える。
「もう歩けない」
 少女が消え入りそうな声で言った。
 その時、キュルルと小さな音が鳴った。どうやら、女の子は腹が空いているようなのだ。
 それに二人ともかなり疲れているように見えた。
「良かったら、うちへ来ませんか。何もないけれど、ひと休みして行って下さい。握り飯くらいはありますよ」
「いえ、ご心配には及びません」
 男は頑なに首を振ると、少女にしゃがみこんで背を差し出した。
「さ、おぶってやるから」
 お璃久は思わず言っていた。
「あなたは良いかもしれないけれど、子どもさんが可哀想ですよ」
 男が唇を噛む。お璃久の言葉に男も思い直したらしい。今度は素直に裏店(うらだな)までついてきた。
 お璃久が住むのは、江戸は町外れ、通称〃鰻長屋〃と呼ばれる粗末な棟割り長屋である。鰻の住処のように狭苦しいといった意味合いがあるらしいが、いつからそう呼ばれるようになったかは定かではない。
 住んでいるのは皆その日暮らしの貧乏人ばかりだが、お璃久のように困った人間は放っておけないようなお人好しばかりである。
 男は富松と名乗った。
「本当の名はマイケル富松というのです」
 男が淋しげに笑った。
 男の側で、少女はお璃久のこしらえてやった握り飯を次から次へと旺盛な食欲でほお張っていた。
「マイケル富松―」
 お璃久が呟くと、富松は頷いた。
 男の本名はマイケル・富松。少女はやはり男の娘で、七歳になり、メリッサ・お勝といった。
「私たちは長崎から出てきました」
 富松は遠い眼で言った。
「長崎―」
 お璃久には驚くことばかりである。生まれてからこのかた江戸から一歩も外へ出たことのないお璃久には、九州、長崎と聞いただけで、まるで遠いはるかな外国のように思えてしまうのだ。
「あなたがお察しのとおり、私は生粋の日本人ではありません。母は日本人ですが、父は亜米利加人です。父の名は知りません。長崎の出島の商館に阿蘭陀から仕事で来ていたとだけ母から聞かされました。母は長崎の遊廓にいる遊女で、私はその二人の間に生まれたのです。当然、誰からも祝福されるような子どもではありませんでした」
 そのたった一人の母親も酷使した身体を患い、二十代半ばで儚く亡くなったという。父親は恐らく男が生まれたことも知らないのではないかと言った。
「父には本国に妻子がいたといいます。私を身ごもったことが判った時、既に父は日本を去っていました」
 お璃久は返す言葉もなかった。
 母のいた遊廓で下男仕事をしながら、何とか食べさせて貰って成長した富松は、十六のときに恋に落ちた。