正直者と裏切り者
プロローグ
りんごーん、と言う間抜けなチャイムの音が、校舎内の各所に設置されたスピーカーを通して学校内に響き渡る。とは言え、そのチャイムを皮切りに動き出すクラスメイトはもう既に教室内にはいない。そりゃそうだ、だって今はもう放課後。クラスの帰宅部も文化部も運動部も、皆それぞれの活動をしに教室から出払ってしまっているのだ。むしろ逆に、こんな時間まで教室に残っている方が珍しい。
今の時刻を時計の短針で表現するなら、既に4の数字をとうに通りすぎており、学校中の生徒の過半数が所属しているであろう帰宅部の人間であれば、既に全員下校しきっていてもおかしくはないような時間だった。
……で、一応俺もその帰宅部の一員だし、目の前で退屈そうに佇む女子も同じように帰宅部員の筈なんだけどな。
「………となれば、私達はおかしい生徒と言う事になるの?」
「そうなんじゃない? 最も、俺は乃木森さんに言われてここに残っているだけだし、その上で早く帰りたいとも思ってるんだから、結果的におかしかった生徒は乃木森さんだけって事になると思うけど」
そんな訳で、夕日が差し照らしている黄昏の教室で二人、俺は同学級の女生徒と二人きりで何ともつまらない時間を過ごしていた。何と言っても、帰りのHRを終えてから1時間もの間、特に色気づいた会話で盛り上がる事も無しにずーっとこの場で待機させられているので非常に苦痛である。
「帰っていいよね?」
「ダメよ」
通算16回目の問答。いくら帰りたいというオーラを放っても感じ取ってはくれないし、実際に言葉で挑んでも、その都度ダメの一点張り。いい加減この茶番にも飽き飽きしたので無理にでも帰ろうとすれば、文字通り身体を張って「待って」と言ってくる。そうなれば男として、こんな見た目だけは可憐な美少女にせがまれては断る道理などあるはずもなく、すごすごと元の位置に戻ってはじめからやり直しだ。
周りの人間から"正直者"と呼ばれている身としては、今ほど自分の性格を恨んだ事はない。
しかし、乃木森さんからは仄かな女の子特有の甘い匂いがしてきて、その心地よさから恨みなんかどうでも良くなってくる。
「私、いい匂いがするの?」
「そりゃもう。俺の大好きな匂いだよ」
「まあ、嬉しい」
既にモノローグを読まれている事にツッコみはしないとして、乃木森さんは俺の答えを気に入ってくれたのか仰々しく回って見せた。可憐な人がやれば、やっぱり絵になるなあと痛感する。どこかの後輩にも見習わせたい所だ。
「ついでに聞くけど、私のことはどう思っているの?」
「大好きだよ。もし許されるなら、今すぐこの場で押し倒したいぐらいにね」
「あら、意外と野性的なのね。でもそう言うのも悪くはないかも。
……因みに、その大好きっていうのは、肉欲を吐き出す相手と言う意味でかしら?」
「勿論だよ」
「まあ、最低」
そりゃあそうさ。だっていくら外面《ガワ》が可愛綺麗でも、清廉潔白《ピュア》な純情男子を体育館裏に甘い言葉で呼び出して、屈強な男共を使ってボッコボコにした挙句、その惨めな姿を楽しもうとする醜悪な中身をこの女の子は持っているのだから。
百歩譲って"欲"を抱いたとしても、"恋"は抱かないのが賢い選択の筈だ。
なのに、それを最低となじられるのは些か心外である。
けど、その文句を吐き出すと同時に見せた乃木森さんの笑顔がやっぱり可愛かったので、その件について今回は不問にしておこう。
「それで、俺はいつ帰して貰えるの?」
「帰さないって言ったら?」
「帰るよ。是が非にでもね」
「それほどまでに家に執着するのね」
「それほどまでに俺に執着する人に言われたくないかなあ」
「あら、自惚れ?」
「あ、もしかしてそんなに執着してないの?じゃあ帰っていいよね」
今度こそ、と17回目の挑戦が始まる。まずは鞄に手をかけて自分の席を立つ所から。
「それとこれとは話が違うの。ねえ、待って」
戦闘開始のセリフと共に出口へ向けた第一歩を踏み出す。
最初の乃木森さんの攻撃。まだ俺の中では帰りたい気持ちが勝っている。行動続行。
「ちょっと、待ってったら」
乃木森さんのコンボ攻撃。少し慌てたような声で攻撃力に補正がかかったようだ。しかし、まだ俺の中では以下同文。
「待ちなさい」
乃木森さんの追撃。しかし命令口調はあまり好きじゃないので、まだ俺以下略。
出口へたどり着くまで後数歩まで来た。しかしまだまだ安心はできない、むしろここからがお互いの正念場だ。
「あの時の事、まだ怒っているのかしら」
「怒ってないよ?」
「嘘」
「俺は嘘が付けない"正直者"だって知ってるでしょ」
扉に手をかける。あと一歩さえ踏み出せれば俺の勝ち。
しかし、そのあと一歩がどうしても遠い。
「ねえ」
俺の手を彼女の両手が覆う。そして、そのまま乃木森さんは自分のおでこを俺の背中に乗せた。……彼女の常套手段だ。この方法で、毎回俺は帰路を目前にして自分の席へと帰されてしまう。
しかし、いくら俺が童貞野郎とは言っても、十数回も同じような事をやられたら慣れもするという物。
「それじゃ、さよーなら」
この場にいる人間の一人を除いた誰もが、俺の勝利を確信していた事だろう。……まあ要するに俺しかいないんだけどね。
しかし、予想外の感触が背中から襲い掛かってくる事で事態は急転した。
「待って、って言ってるでしょ」
制服越しに伝わるふにゅんとした独特の柔らかさ。これは、まさか、もしかしなくても―――!?
「の、乃木森さん?背中におっぱい的な物が当たってるんだけど」
「当ててるのよ。………もう少し残ってくれれば、こう言う事もしてあげてもいいんだけど」
そう言って、彼女はいじらしく俺の手をにぎにぎとしてきた。いくら生粋のサディストとは言っても、やはり芯は女の子という事なのだろうか。
「それとも、私じゃイヤ?」
「滅相もない」
そうして、俺は17回目の敗北を喫したのだった。
すごすごと席に戻り、そして乃木森さんは俺の目の前の席を借りて座る。
じっ、と俺の目を見つめ切った彼女は、その唇から吐息混じりに「目を瞑って」と希った。
が、残念ながらその言葉を鵜呑みにはできない。
「そう言って、またあの時みたいにボコボコにするんだね?もう騙されないよ」
「失敬ね、そんな昔の話を蒸し返すなんて。今日は何も企んでいないから、安心して」
「昔って言ってもまだ一週間も経ってないんだけどね。大体、乃木森さんは"裏切り者"じゃないか」
「うふ、まあね。でも、あの状況を打開できた物木くんですもの。どんな事があっても切り抜けられるわ」
「だから乃木森さんにそんな買い被ったような事を言われても全然嬉しくないんだって」
この学校では俺が"正直者"と呼ばれているように、彼女も学校の人間からは"裏切り者"と呼ばれている。
何せ、彼女が持つ中身の醜悪さを説明した時のあの例えは、丸々俺が体験した―――いや、体験しかけた事実なのだから。