暁の女神-Goddess bless you-
「………ああ、なんて汚れているんでしょう」
朦朧とした意識の中、場違いな声を耳にする。続いて甘く漏らされた溜息に、ジェラードの頭はさらに混乱を極めた。成人男性にしてはやや高い、凛としたテノール。いや、むしろこれは、
「ご、婦人が、何故こんな所にいる、んです?」
ぼやけた視界におぼろげではあるが、優美な曲線が浮かび上がる。明らかに男のものとは異なる、女性的な影。
切れ切れになりながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。怪我はしていないのですか。そもそも、いったい何処から来たのですか。此処は危険ですから、早くお逃げなさい。
ジェラードの考えを見透かすようにして、目の前に突如として現れた女は掠れたアルトで笑った。
「あらあら、他人の心配をしているような場合なのかしらジェラード=カーライル? 猫っかぶりの大嘘吐きが人格者ぶらないでくださいな。貴方は周囲が思うほど善人ではないでしょう」
鋭い閃光、破裂音とほぼ同時に地が大きく揺らいだ。衝撃と共に腹部の鋭い痛みが走り、半ば手放しかけていた思考能力が一時的に蘇る。
舞いあがる砂埃の中、逃げ惑う自軍の兵士たちの長靴が目に入った。明け方にかけられた奇襲で、率いていた小隊はほぼ壊滅というほどまでに追い詰められている。おそらく無事なのは、事実上の別働隊として動いていた曹長の一派だけだろう。
「ねえ? そんなつまらない物を見ているぐらいなら私のことでも見ていればいいじゃない」
「っ、ぐ、何を……」
乱暴に髪を掴まれ、無理やりに上向かされた。
身体中に刻まれた傷が、忘れてくれるなと言わんばかりに存在を主張する。自分の身分を一目で証明してくれる軍服は土と血にまみれて元の色がわからないほどになっているうえ、あちこち擦り切れていた。
しかし、じくじくと疼く痛みは不敵に笑う女の姿を目にした瞬間に、飛んだ。
彼女の方へと伸ばしかけた手は、戻すことも出来ないまま宙で静止する。文字通り、固まってしまったようなものだった。
「まあ。確かに、ちょーっと〈不適切〉かもしれない。でも私は貴方のような子が嫌いではないのよ…そうねえ、独断では決められないなあ。上がなんと言うかわからないですもの」
「…………はあ、どうやら先程の爆発で、目をやられてしまったようですね。いえ、頭がイカレてしまったのでしょうか」
「なあに、その不愉快な反応。……貴方、そんなに死にたいの?」
眉間にしわを寄せ、唇を歪める。機嫌を害したと一目でわかる顔なのに目を逸らすことが出来ない理由は、彼女が端整な顔立ちをしているからというだけではない。
言うなれば、深い闇に差す一筋の光の矢のように浮かび上がったその姿が、明らかに異質であったせいだろう。
〈異形〉である、と言っても良い。
太陽の下では溶けてなくなってしまいそうな雪肌。白銀の長い髪はプラチナそのものの輝きを放っている。
身につけている青銅の兜、鎧はひとむかし前の戦場であればありふれたものであったかもしれない。しかし剣など完全にお飾りとなろうとしている近頃の戦争では、滅多にお目にかかれないようなシロモノである。むしろ骨董品店で彼女ごとそれ相応の値札をつけられて陳列されている方が似合うだろう。そもそも彼女自身がアンティークドールみたいな容姿なのだ。
もはやジェラードにはこれが現実に起きていることなのだとは感じられないようになっていた。痛覚が鈍ってきていることからすれば、もう限界に近いはずだ。現実逃避の夢か、幻覚。このまま醒めることなく逝ければ楽だろうにな、と思う。しかし、あいにく自分はそんな上等な生き方はしてこなかった。
不可思議な存在と遭遇したことによる驚きで、一時的に麻痺している痛みも、じきに戻ってくるだろう。
(まさか、天使だなんて言わないでしょうね?)
その凄絶な美しさを前に、呼吸をすることさえも忘れていた己に気付いたのは女が楽しげに声をかけてきたからであった。
「…あらら、見惚れているの? へえ、可愛いところあるじゃない」
「愛でて下さるつもりがある、ならば、髪を引っ張るの、やめて頂けると助かるの、ですが」
惚けたようなことを言う女に脱力していると、じわじわと痛みがぶり返し始めた。彼女は口端を上げたまま、髪を掴んでいた手をぱっと放す。ぐしゃっと、物理法則に従ってジェラードは無慈悲に硬い土の上に叩きつけられた。
自分が望んだことだとはいえ、なんだか理不尽だ。
「惨めでしょ」
屈みこみ、視線を合わせる。角度によって色味が変わる彼女の瞳はまるでメノウのようだ。
「無能な奴らに蹂躙されて、こうして使い捨てられるのだもの」
「…何が、わかるんですか」
「まあ、私も中間管理職ですからね」
くるくると指に髪を巻きつけながら彼女は歎息する。
「いわゆる上と下の板挟みって奴、おわかり? 私を買ってくれる上もいるけれど、お偉いさんっていうのは何よりも自分の面子を大切にするものだし。下は下でろくに仕事しないで遊び呆けてるクズとか、命令違反ばっかのバカとか……」
「……大変な職場なんですね」
瀕死状態の自分が何故、この見ず知らずの女の身の上話に付き合っているのだろう。疑問が頭を掠めたが、気付かなかったことにした。というより、もうあれこれ考えている心の余裕がない。
彼女は血の気のないジェラードの顎をぐいと掴んだ。
「そう。だから私は、使える駒が少しでも欲しいの」
何を、と紡ぎかけた言葉は声にならなかった。
伏せられた長い睫毛、メノウの輝きは瞼の下へと閉じ込められる。寄せられた唇には一切の熱を感じられなかった。その代わり、体内に何かひんやりしたものが注ぎこまれ、ゆっくりと満たされていくのを感じた。
あまりの心地良さに蕩けてしまいそうだ。ジェラードの目も、誘われるようにそっと閉じられた。
「私の力でもう少しだけ、貴方を生かしてあげる」
囁かれた声は、小さな悪意が健全な魂を蝕んでいくかのように、ジェラードの理性を溶かす。
何処か遠い場所で、がしゃんと何かが落ちて粉々に壊れる音が聞こえる。
まるで獰猛な虎のようだわ。といっても、本物を見たことはないのだけれど。直接目にした者から話を聞いて著名な画家が描いた異国の生き物は美しい毛並みと、燃えるような眸をしていた。気高く、力強く、とても残酷な獣。
狂ったように口唇を求めてくる男を見て、彼女は満足げに微笑んだ。〈祝福〉の能力は、対象の身体に接触しないと使えない。手段としてキスを選んだのは単に女の好みにすぎなかったが、予想以上に彼は感度が良いらしい。分け与えた力はわずかのはずだが、既に彼は完全に自分のものにしたようだった。一瞬でも気を抜けば乗っ取られるのは自分の方かもしれない。
今回の視察は突発的なものであったが、得たものは大きかった。
未来図もろくに描けない奴らが始めた戦争に手を貸す人間なんて性根が腐りきった下衆か、とんでもない馬鹿のどちらかだと思っていたけれど。
面白いのもいるじゃない、ねえジェラード=カーライル。
女は艶然とした笑みを紅い唇に刻む。
私はきっと手に入れてみせる。
ああ、いとしいひと。貴方は私の大切な、
作品名:暁の女神-Goddess bless you- 作家名:鷹峰