暁の女神-Goddess bless you-
ある男の告白‡
「私は殺していません。ただの一度も、誰ひとりとして、です」
そう言った彼の表情はまじめそのもので、冗談だと思って聞き流そうとした青年のおざなりな微笑を凍りつかせた。目の前の柔和な瞳をした男。三十も半ばを過ぎたほどだという彼の、いかにも優男といった風貌、丁寧で穏やかな口調が聖職者や教師のものであったならば。青年もああそうでしょうね、と心からの言葉を口にすることが出来た筈だ。しかし、
「……貴方がそれを言いますか。『戦場に放たれた虎』、『深紅の貴人』と呼ばれたジェラード=カーライルそのひとが?」
口元をわずかに緩め、ジェラードは膝の上で手を組んだ。
そうですよ、とわらいながら。
どう見ても彼は『元・帝国陸軍旅団長』という肩書きが似合うような屈強な男のイメージ像からは程遠かった。むしろ対極にある、と言っても良いくらいだが、ジェラードは階級で言えば大佐。戦闘における実力のほどは定かではないが、体力自慢の男共を一声で黙らせるのが可能な立場だ。
表面がすり減って滑らかになっている木製の机。その上に置かれていた蝋燭がふんわりと揺れていた。薄暗い房室の唯一の光源だったそれは、煌々と飾り気もない寒々しい灰色の壁を照らし出す。やわらかな明かりがジェラードの顎の輪郭をなぞる瞬間、わずかに見えた青い髭は、彼にはどう考えても似つかわしくないものだ。
ジェラードは貴族とまではいかないが、裕福な家庭の二男としてこの世に生を受けた。幼少の砌から何より大切にするべきものはひととしての品性である、と教え込まれた彼の関心は己の内面のみに留まらず外見にも及んだ。心のブレや揺らぎは外に出やすい。そのため、身だしなみには特に注意を払っていた。信用を勝ち取ろうとする過程では、たった一時見せた隙のある姿が命取りになり得ることを知っていたからだ。
カーライル家はジェラードの父が興した紡績業で巨万の富を手にした所謂『成り上がり』である。それでも不当に低く見られたり蔑まれたりすることはなかったのは、ひとえに温和で機知に飛んだカーライル氏の性格ゆえだろう。
変わりゆく時代、新しい産業。そういった見慣れぬ物に徐々に心を開き始める風潮が社会にあったこと、それも影響しているのだろうが、上流階級の鼻持ちならない連中は新参者を予想以上に歓迎してくれた。
家業を継ぐことになっている兄だけではなく、ジェラードも入隊以前から社交界に顔を出していたし、帝都メイスの目の肥えたお嬢さま方からもなかなかの高評価を得ていた。
スカイブルーの瞳、肩先よりも長く伸ばされたマロン色の髪。そこらの貴族の坊っちゃんよりもそれらしく、上品に、また優雅に振舞う男が注目を集めないはずがない。どんな夜会に参加しても、誰もが話の輪の中にジェラードを加えたがったものだ。ちょうどいいところに来たね今君の話をしていたところなんだ。そう思うだろうジェラードくん、貴方はどうお考えですのジェラードさま。ミスター・カーライルの名前で呼ばれる兄、ハロルドよりも受けが良かったのは最大の皮肉だと言えよう。実際、ジェラードの方が後継にふさわしいのでは、という話がなくもなかったらしい。兄に対し中身のない中傷を連ねようとした彼の信奉者に対し、ジェラードはただ静かに。いつも通り、不思議なくらいに平静を保ったままの表情で微笑んでみせたという。
「お話を聴きにいらしたのでしょう? 差し支えないようなら、そろそろいかがですか」
清水のような声に頭がきん、と冷やされる。じわじわと思考が余所にずれていってしまったのを悟られていたらしい。目元にまだあどけなさを残す青年は、生まれて初めて貰った給料で買った帽子を、もういちど深く被り直した。右手にはペンを握り、左手で手帳を開く。
「ではお聞かせ願えますか? 貴方だけの人生を、貴方自身の言葉で」
生ぬるい夜の風に吹かれ揺らめいた明かりの下、薄闇の中に紅い軍服が浮かびあがる。
優しげな表情のまま、語り部は笑みで結ばれた唇を開いた。
耳の奥がじんと痺れ、どくどくと早鐘を打つ心臓は破裂寸前の状態まで追い込まれている。
身体中の血液が流れ出て行く感覚は、そうそう味わうことが出来るものではない。鼻をつく血臭、肉が爛れ焼けるにおい。耳を劈かんばかりの爆音が聞こえた直後、霞んだ視界の端に火焔が立ち上った。
あちこちで発される、どうやっても言葉にならない呻き声が痺れた耳朶に沁み込んでいく。
(……ああ、今度こそもう駄目ですね)
戦況はひどいものだった。敗走に次ぐ敗走。時間が経つにつれて状況はどんどん悪くなっていく一方だった。
少尉に任じられ、初めて赴いた戦地で息絶えようとしている。
惨めだった。
今まで学んできたことなど、純粋な殺意の前には何の役にも立たなかった。互いの命を挟んで向かい合った兵士たちの目に宿るのは、人間らしい感情ではない。手早く、処理をすることが第一。そんな初期設定がなされた戦闘機械と対峙しているようなものだ。
思い込まなければ、今にも震えそうな足でその場に立っていることさえ、困難だった。
だからジェラードは決まり切った行為を繰り返す。父とよく似た面差しの兵士に銃口を向け、捕虜にした兄と同じ年頃の中尉の処刑を命じる。相手の陣を崩し、あちらの士気を削ぐような惨たらしい死に様を演出するために部下に指示を出した。
死にたくなかった。ただ、それだけだった。
ばからしい、と自嘲する間もなかった。死なないために、生きていた。ただそれだけだ。
二十年に渡って軍務に就いていた曹長は、年下の上司を歓迎しなかった。つい先日までこき使っていた士官候補生の命令に、今は従わねばならない立場となる。学校を出たばかりの若造に何がわかる、ということなのだろう。ジェラードは十分すぎるほどにその気持ちを理解出来た。彼は慕ってくれる兵士数人を引き連れてこちらの指揮を離れ、独断で動き回っている。
連携を取ることが多かった小隊に配属された士官学校時代の同期とも上手くいかなかった。失策の責任を押し付け合い、衝突を繰り返した。何十、何百もの部下の命が手の中にあるというのは途方もない重圧だった。
「お前みたいな、何不自由のない生き方をしてきたような奴に俺の気持ちはわからない」
一発の銃弾が彼の胸を貫いたのは、彼がそう吐き捨てるようにして言った直後だった。それから立て続けに五発。生温かい飛沫が青白いジェラードの頬を濡らす。ぐらりと棒きれのように崩れ落ちた薄い身体にあいた穴、そこから赤黒い水がとめどなく流れ出ていた。
もう使用することのない塹壕の中に、薄汚れた布にくるんだ身体を他の戦死者と一緒に横たえる。燃やしましょうか、と平坦な声で問いかけた上等兵に頭を振る。顔色ひとつ変えずに、兵士たちに手にしたスコップで砂をかけるよう指示を出した。最期の瞬間まで苦い想いを抱かせたまま逝かせてしまった戦友は、あっさりと焼け焦げたような色の土の中に消えた。
とうとう、自分の番がやってきたのだとジェラードは悟っていた。
元より諦めは良い方だ。生きるか死ぬか、その境界に自分がいるのだとしたら迷わず楽な方を選ぶ。
作品名:暁の女神-Goddess bless you- 作家名:鷹峰