眠れる薔薇
やあ、と片手を上げると彼はこちらに向かって笑いかけた。まるで親しい友人に対してするような態度だ。一度しか会ったことなどないのに、やたらと友好的な男だという印象がある。
キスとハグ。初対面だと言うのに、何の臆面もなく彼はやってのけた。固まっている僕を見て彼は意地悪く、にぃと嗤っていた。
日暮れの庭園、ぽつりぽつりと立った外灯がじじじ、と音を立てている。
その足取りは羽のように軽く、敷かれた煉瓦の上を音もなく滑る。ダンスのステップでも踏んでいるかのように、優雅だ。黒一色の衣はまるで影のようにくっきりと、宵闇の中に浮かび上がる。目で追っているうちに、僕は妙な気分になっていった。
現実感がないのだ。
まるで悪夢でもみているのではないか、という馬鹿げた逃避が頭をかすめていった。
闇色の外套の下はからっぽなのではないか。先ほど微笑に見えたものは、今明かりの下でもう一度じっくり眺めてみれば、どこにも見当たらないのではではないだろうか。
少女のあどけない笑い声がきこえる。あまく、さわやかな瑞々しさがあって耳触りが良い。ずっときいていたいような気もすれば、今すぐにも耳を塞いでしまいたいような気にもなる。それが男のかすれたような声と重なって不協和音を奏でていた。惑わす幻聴に身を委ね、近づいてくる彼のほっそりとした影が鼻先で霧散してくれるのを、ひたすらに待つ。
それは、祈りにも似ている。
「ねえ、まさか怖気づいてやしないだろうね」
意図的にからかうような声音を作り上げ、男は言った。かつて、言葉を交わした時にも、三日月の弧を描く唇とひややかな笑みが、人好きのする顔に貼りついていたのを思い出す。いいえ、と答えると紅い月はもっと細く、もっと鋭いものへとかたちを変えた。
雲に覆われた空を背負い、男は確かに此処に存在していた。繊細な細工もののような金の瞳と髪が月明りの下でさらに輝きを増している。
きい、とかすれた音がして鈍色の金属扉が開かれる。地を這う蔦を厭わしげに避けながら、手にした杖で無秩序に開いた花を散らした。
静かに、男との距離は詰まっていく。
相変わらず彼の足音は聞こえなかったが、僕の心臓の音ばかりが大きくなっていった。
後ずさったせいで、膝の裏に何かが触れた。
あの石だ。何の変哲もない、ただ黒いだけの、小さくもないが岩というほどじゃない大きさのかたまり。
つめたい石の表面を撫でていると何故か落ち着くような気がした。ひんやりした感触が手から全身へと徐々に伝導する。傍らに咲く紅が湿った風に吹かれて揺れるのを、慈しむかのような瞳を向けた。
まるで、いとしいひとがそこにいるかのようだね。
そんな僕を見て、彼は呆れまじりの醒めた調子で言う。
「願いをもういちど確認してもいい?」
ゆっくりと、頭の中で幾度も繰り返された文章を声に出してみる。口の中でころころ飴玉のように転がして、響きを確かめながら。
あの少女が幸せでいられますように、と。
「『とびっきり甘いお菓子がたべたい』と言ったのは誰でした?」
「……わたし、かな」
語尾を上げて、やや疑いの意味を込めようとしているのがわかった。自分が追及され、非難を受けることに慣れていない甘ったれ。お嬢さまには、珍しいことではないのだが(むしろ日常茶飯事だ)、無意識のうちに眉間にしわが寄っていたらしい。不安そうなふたつの大きな眼が僕を、見上げていた。
白い皿に盛られたプディングはたっぷりとカスタードソースがかけられている。そのほんのひとかけらが小さな口にそっと運ばれて。そのあとは、いくら待ってもスプーンは動かない。
「ごめんなさい。あのね、ほんとはもっとたべられるかな…って思ってはいたのよ? でもね…」
「お嬢さまの状態はわかっています、責めているわけじゃないですから」
くしゃりとやわらかい髪をかき混ぜると彼女はうれしそうに眼を細めた。すこし前よりかは、ずっと細くなった首や、くっきり浮き出た青い血管を見て、お嬢さまには悟られないように僕は心の中でため息を吐いた。
僕は一介の使用人。気に入られているから、こうして彼女のそばに控えていられるだけで、街中を走り回って腕の 良い医者を捕まえる時間もなければ、効果のあるお薬を手に入れるのに十分なおかねも持っていない。
どうして、お嬢さまが苦しまなくてはならないのだろう。
なんで、ひとりでなきそうな表情をしている彼女を慰めてあげられないのだろう。
温室の花のような、かよわいひとりの少女を支えられるだけのものを、どうして僕は持っていないのだろう。
あまりに無力な自分に一番腹が立つ。
もし僕が医者だったならば、他の誰かの命を削ってでも、治せる手立てがあるならば実践していただろう。聖職者であったなら、救いを求めて神さまの足もとへ跪いてでも、彼女のゆるやかな死を遅らせるように乞うただろう。
ばかげた感傷に取り憑かれているとわかる。それでも何かを願わずにはいられない。乞い求めずにはいられない。
彼女の隣にいるのが自分でなければ、これほど悔しく思うことはなかったはずだ。だけど、お嬢さまのそばにいなかったとしたら、この胸を締め付ける切なさも、甘い痛みに溺れる経験も、僕は味わうことはあっただろうか。
ふわりと、春の風が花びらを散らすように、少女の桜色の唇もわずかに開かれる。あまやかな吐息が、おりてくる。
「おかしいな、わたし…こんな状態でも、幸せに感じているのよ」
細い指をそっと絡ませると彼女は、満足そうに微笑った。
あなたにはわからないでしょうけど。
くすくす笑いながら、少女は言葉を繋げた。
「ねえ、今、庭の薔薇はあなたが面倒をみてくれているのよね」
お嬢さまの薔薇。丹精込めて、庭師の手を借りながら、それでも出来るだけ自分で世話をしたいと。はじめて良心にねだったものだった。
朝露に濡れる紅は、まるで血を流しているかのようにみえる。
彼女はそれらを、親がこどもを溺愛するように、そのこどもが愛玩動物を猫可愛がりするように、幾重にも重ねた愛情を注いでいた。
「ふふっ…似合わないわよ。貴方に花の世話なんて出来たっけ」
「僕は不器用ですけどお嬢さまの大切なものですから、どうにか。詳しい者に教わりながらですが」
じゃあ、そのひとに任せてしまえばいいのにと彼女は言った。いつまで経っても貴方は要領が悪いわね、とも。
だけど僕は、その役目を誰かに譲る気には到底なれなかった。それを知りながら微笑む彼女が、憎らしい。
言いたいことだけいって僕のお嬢さまは眼を閉じた。
最期の最後まで勝手だった彼女に、おやすみのキスをする。毎夜の僕の役割だったその行為は儀式的にも感じられる。名残惜しくて繰り返しているうちに、愛らしい唇に灯っていた熱は失われ、凍えていった。
空に浮かぶ宵の月が庭園を冷酷に見下ろしている。
人気が無く閑散としているその一角、深紅の薔薇が植わっている隣に黒い石がぽつんと置かれていた。ひとりの使用人によって置かれたそれに男が腰かけている。何もかもが黒ずくめで、フードから零れた黄金の髪だけが彼の有する唯一の色彩だった。
キスとハグ。初対面だと言うのに、何の臆面もなく彼はやってのけた。固まっている僕を見て彼は意地悪く、にぃと嗤っていた。
日暮れの庭園、ぽつりぽつりと立った外灯がじじじ、と音を立てている。
その足取りは羽のように軽く、敷かれた煉瓦の上を音もなく滑る。ダンスのステップでも踏んでいるかのように、優雅だ。黒一色の衣はまるで影のようにくっきりと、宵闇の中に浮かび上がる。目で追っているうちに、僕は妙な気分になっていった。
現実感がないのだ。
まるで悪夢でもみているのではないか、という馬鹿げた逃避が頭をかすめていった。
闇色の外套の下はからっぽなのではないか。先ほど微笑に見えたものは、今明かりの下でもう一度じっくり眺めてみれば、どこにも見当たらないのではではないだろうか。
少女のあどけない笑い声がきこえる。あまく、さわやかな瑞々しさがあって耳触りが良い。ずっときいていたいような気もすれば、今すぐにも耳を塞いでしまいたいような気にもなる。それが男のかすれたような声と重なって不協和音を奏でていた。惑わす幻聴に身を委ね、近づいてくる彼のほっそりとした影が鼻先で霧散してくれるのを、ひたすらに待つ。
それは、祈りにも似ている。
「ねえ、まさか怖気づいてやしないだろうね」
意図的にからかうような声音を作り上げ、男は言った。かつて、言葉を交わした時にも、三日月の弧を描く唇とひややかな笑みが、人好きのする顔に貼りついていたのを思い出す。いいえ、と答えると紅い月はもっと細く、もっと鋭いものへとかたちを変えた。
雲に覆われた空を背負い、男は確かに此処に存在していた。繊細な細工もののような金の瞳と髪が月明りの下でさらに輝きを増している。
きい、とかすれた音がして鈍色の金属扉が開かれる。地を這う蔦を厭わしげに避けながら、手にした杖で無秩序に開いた花を散らした。
静かに、男との距離は詰まっていく。
相変わらず彼の足音は聞こえなかったが、僕の心臓の音ばかりが大きくなっていった。
後ずさったせいで、膝の裏に何かが触れた。
あの石だ。何の変哲もない、ただ黒いだけの、小さくもないが岩というほどじゃない大きさのかたまり。
つめたい石の表面を撫でていると何故か落ち着くような気がした。ひんやりした感触が手から全身へと徐々に伝導する。傍らに咲く紅が湿った風に吹かれて揺れるのを、慈しむかのような瞳を向けた。
まるで、いとしいひとがそこにいるかのようだね。
そんな僕を見て、彼は呆れまじりの醒めた調子で言う。
「願いをもういちど確認してもいい?」
ゆっくりと、頭の中で幾度も繰り返された文章を声に出してみる。口の中でころころ飴玉のように転がして、響きを確かめながら。
あの少女が幸せでいられますように、と。
「『とびっきり甘いお菓子がたべたい』と言ったのは誰でした?」
「……わたし、かな」
語尾を上げて、やや疑いの意味を込めようとしているのがわかった。自分が追及され、非難を受けることに慣れていない甘ったれ。お嬢さまには、珍しいことではないのだが(むしろ日常茶飯事だ)、無意識のうちに眉間にしわが寄っていたらしい。不安そうなふたつの大きな眼が僕を、見上げていた。
白い皿に盛られたプディングはたっぷりとカスタードソースがかけられている。そのほんのひとかけらが小さな口にそっと運ばれて。そのあとは、いくら待ってもスプーンは動かない。
「ごめんなさい。あのね、ほんとはもっとたべられるかな…って思ってはいたのよ? でもね…」
「お嬢さまの状態はわかっています、責めているわけじゃないですから」
くしゃりとやわらかい髪をかき混ぜると彼女はうれしそうに眼を細めた。すこし前よりかは、ずっと細くなった首や、くっきり浮き出た青い血管を見て、お嬢さまには悟られないように僕は心の中でため息を吐いた。
僕は一介の使用人。気に入られているから、こうして彼女のそばに控えていられるだけで、街中を走り回って腕の 良い医者を捕まえる時間もなければ、効果のあるお薬を手に入れるのに十分なおかねも持っていない。
どうして、お嬢さまが苦しまなくてはならないのだろう。
なんで、ひとりでなきそうな表情をしている彼女を慰めてあげられないのだろう。
温室の花のような、かよわいひとりの少女を支えられるだけのものを、どうして僕は持っていないのだろう。
あまりに無力な自分に一番腹が立つ。
もし僕が医者だったならば、他の誰かの命を削ってでも、治せる手立てがあるならば実践していただろう。聖職者であったなら、救いを求めて神さまの足もとへ跪いてでも、彼女のゆるやかな死を遅らせるように乞うただろう。
ばかげた感傷に取り憑かれているとわかる。それでも何かを願わずにはいられない。乞い求めずにはいられない。
彼女の隣にいるのが自分でなければ、これほど悔しく思うことはなかったはずだ。だけど、お嬢さまのそばにいなかったとしたら、この胸を締め付ける切なさも、甘い痛みに溺れる経験も、僕は味わうことはあっただろうか。
ふわりと、春の風が花びらを散らすように、少女の桜色の唇もわずかに開かれる。あまやかな吐息が、おりてくる。
「おかしいな、わたし…こんな状態でも、幸せに感じているのよ」
細い指をそっと絡ませると彼女は、満足そうに微笑った。
あなたにはわからないでしょうけど。
くすくす笑いながら、少女は言葉を繋げた。
「ねえ、今、庭の薔薇はあなたが面倒をみてくれているのよね」
お嬢さまの薔薇。丹精込めて、庭師の手を借りながら、それでも出来るだけ自分で世話をしたいと。はじめて良心にねだったものだった。
朝露に濡れる紅は、まるで血を流しているかのようにみえる。
彼女はそれらを、親がこどもを溺愛するように、そのこどもが愛玩動物を猫可愛がりするように、幾重にも重ねた愛情を注いでいた。
「ふふっ…似合わないわよ。貴方に花の世話なんて出来たっけ」
「僕は不器用ですけどお嬢さまの大切なものですから、どうにか。詳しい者に教わりながらですが」
じゃあ、そのひとに任せてしまえばいいのにと彼女は言った。いつまで経っても貴方は要領が悪いわね、とも。
だけど僕は、その役目を誰かに譲る気には到底なれなかった。それを知りながら微笑む彼女が、憎らしい。
言いたいことだけいって僕のお嬢さまは眼を閉じた。
最期の最後まで勝手だった彼女に、おやすみのキスをする。毎夜の僕の役割だったその行為は儀式的にも感じられる。名残惜しくて繰り返しているうちに、愛らしい唇に灯っていた熱は失われ、凍えていった。
空に浮かぶ宵の月が庭園を冷酷に見下ろしている。
人気が無く閑散としているその一角、深紅の薔薇が植わっている隣に黒い石がぽつんと置かれていた。ひとりの使用人によって置かれたそれに男が腰かけている。何もかもが黒ずくめで、フードから零れた黄金の髪だけが彼の有する唯一の色彩だった。