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海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】

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「海神の祭? 初めて聞きます」
「まあ、他所者が知らんのは仕方なかろう」
 網元はつるりと無精髭がまばらに生えた顎を撫でた。そこでまた手酌で注ごうとして、銚子が空なのに気づいたようである。
「眞矢歌、眞矢歌。全く、気のつかんヤツだ」
 と、この網元は自分の娘にでも容赦がない。
 声高に呼んでいると、眞矢歌がやってきた。
「おい、酒がなくなってるぞ。あと、悠理にも持ってきてやってくれ」
「いや、俺は良いですから」
 慌てて手を振るも、網元はかなり酒が回ってきたらしく、有無を言わせない勢いだ。
「お父さんったら。無理強いは駄目よ」
 眞矢歌が父親を窘める口調はまるで長年連れ添った古女房のようである。そういえば、この家にはおかみさんがいない。晃三の歳であれば、まだ妻が健在だとしても不思議はない。既に亡くなったのだとも考えられたが、いかにしても酒の席で訊ねられるものではなかった。
 眞矢歌は一旦厨房に引き返し、今度は盆に銚子を二つ、枝豆のゆがいたのを透き通ったガラスの器に盛ってきた。更に悠理の分らしい杯もある。
「まあ、飲め。飲めんクチではないはずだ」
 網元は眼許を紅く染め、悠理の杯に並々と注いだ。
「俺がイケるってこと、判るんですか、親方」
 ひと息に煽り、悠理が訊ねる。
「だから言っただろうが、その人の生き方は表に滲み出ると」
 悠理は押し黙った。自分の母親のような歳の女たちに日毎、媚を売り、身体さえも売り渡していた、かつての自分。その薄汚れた自分を、この年老いた無骨な漁師はちゃんと見抜いているというのか。
 そう思った刹那、悠理はこの男の前から消え去りたい衝動に耐えた。これほど自分を、自分が歩いてきた道を恥ずかしいと感じたのは生まれて初めてであった。
 網元は眼尻を染めたまま、相変わらず手酌で汲んでは干している。
「過去のことなんぞ、どうでも良い。悠理、大切なのはこれからだぞ。わしは別にお前がどこで何をしてきてかを詮索するつもりもないし、だからといって、軽蔑もせん。過去は過去であって、今と切り離せば良いだけだからな。だが、過去を完全に断ち切るのは容易ではないぞ? お前にそれができるか―、それは、お前自身にしか判らないことだ。お前にその気があるというのなら、わしはお前に手を貸してやっても良いと思っとる。ただ、それだけのことよ」
 それから十五分後。網元が急にちゃぶ台に突っ伏したので、悠理は色を失った。
「親方、親方っ?」
 慌てて背に手を掛けて揺さぶった。
 騒ぎを聞きつけて、眞矢歌が飛んでくる。
「どうかしましたか?」
「いや、その大変なんです。親方が急に」
 悠理が声を震わせるのに、眞矢歌も声を震わせた、しかし、どうも別の意味を含んでいるようである。
 悠理が訝しげに見つめると、眞矢歌は肩を震わせて笑っていた。
「大丈夫ですよ。父は眠っているだけですから」
 悠理はハッとして網元を見た。なるほど、かすかに鼾の音が聞こえてくる。
「ごめんなさいね、溝口さん。父はいつも際限なく飲んだ挙げ句に、この有様なんですよ」
 結局、悠理が網元を担いで、奥の寝間まで運ぶことになった。いつもは眞矢歌の力では到底、運べないので、居間に寝かせるらしいのだが、悠理が眞矢歌に言って、寝間に布団を敷いて、そちらに運んだのだ。
 熟睡している網元をそっと布団に横たえると、眞矢歌が小さな声で言った。
「済みません。ご迷惑をかけてしまいましたね」
「いいえ。これしきのこと、何ともありませんよ」
 言い終えたところで、ハッとした。どうやら、眞矢歌の方も気づいたらしい。
 深夜、午前零時を回った家の中に、今、悠理と眞矢歌は二人きりであった。
「夜遅くまで、本当にごめんなさい。それでは、おやすみなさい」
 眞矢歌もまた、その白い面がうっすらと染まっていることから、現実を意識しているのだとは知れた。
「おやすみなさい」
 悠理の挨拶など到底、耳には入っていない様子で、彼女は逃げるように部屋を出ていく。
 微笑ましい想いでそのか細い後ろ姿を見送ってから、悠理は改めて網元を見つめる。
 網元は今年、六十二になるという。今の時代では、まだ老人と呼ぶには早い年代かもしれない。確かに赤銅色の灼けた膚も鋼のように鍛え抜かれた体躯もまだ老人のものではない。
 悠理の父が生きていたとしても、まだ四十代半ば過ぎだが、父もまた悠理ほどではないにせよ、早婚であった。大学時代に家庭教師のバイトをしていて、高校生だった母とめぐり逢ったのだ。資産家の娘と貧乏苦学生の恋。まるで昼メロのような内容だが、彼の両親はそれを地でゆき、熱烈な恋愛結婚の末に結ばれた。
 母は勘当され、二人は貧相な木造アパートで新婚生活を営んだ。やがて悠理が生まれたが、母は悠理が五歳の時、貧乏に嫌気がさし、新しい恋人と姿を消した。
 網元は悠理の父ほど若くはないが、普通に考えて親子といっても不自然なほどではない。網元の安らいだ寝顔を眺めながら、悠理は亡くなった父のことを久しぶりに考えた。
 どこまでも真面目で、真面目すぎたがために、一生を社会の片隅で小さくなって過ごしたような人であった。自分と幼い息子を棄てて去った妻を恨みもせず、自分に甲斐性がないばかりに妻子に辛い想いをさせたと我と我が身を責めるような男であった。
 悠理は父を大好きだったし、尊敬もしていた。父を哀しませたくなかったから、ちゃんと大学まで出て公務員か教員になって欲しいという願いを叶えるべく、高校も真面目に通っていた。父が生きていれば、悠理の人生もまた変わっていただろう。
 悠理はそこで小さく首を振る。止そう、過去を振り返っても仕方がない。過去に存在した事実はもう変えようがない。変えられるのは未来だけ、しかも、それは悠理自身によってしか、なしえないことなのだ。
―過去のことなんぞ、どうでも良い。悠理、大切なのはこれからだぞ。
 網元の力強い声が耳奥でこだまする。
 だが、今せめて、この瞬間だけは亡き父の面影をほんの少しだけ偲びたかった。