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挽歌 「こわれはじめ」

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【挽歌】

 好奇心というものは、時に人を危険へと踏み込ませる魔性の心。
 そんな事を、彼女は昔誰かから聞いた覚えがあった。
 そして、今まさに彼女は好奇心の赴くままに行動したことを後悔している。 
危険なことには首を突っ込むしかない、そんな無鉄砲な彼女の考えが、今現在へと至っていたからだ。
 肩から血を流し、荒い呼吸で息をする目の前の男が、その証拠だ。
「だ、大介さん……」
「……なぁ、華憐」
 男は、言った。
「どちらにせよ、このままじゃ俺たちのうち、誰か一人は死んじまう。わかるな?」
「あ、あ……」
 怖くて、怖くて、動くことすらままならない。
 そんな娘を目の前にして、男は手を差し出す。
「怖いか? 怖いだろう、そりゃそうだろうな。見たことも無い、非日常だもんな。だから、もう逃げることは出来ない」
「……?」
 一丁の銃を、掴んでいない方の掌へそっと乗せる。
「こいつを、使え」
 それが、彼女――伊月華憐の、【転機】だった。

 *

 日常というものは、ちょっとしたことで崩れ去るもの。そう彼は思っていた。
 安物の煙草を懐から取り出し、ライターで火を付ける。
 むせるような、人によっては鬱陶しくも感じる匂いが事務所内に広がる。
 煙が事務所内の上へと上がっていき、それを煙たがるかのように換気扇が煙を吸い込んでいく。
「煙草はやめたんじゃなかったのか?」
 彼の対面にある大きめなソファーで、寝っ転がりながら彼の方を向く老人は、その様子に対して不思議がることもなく笑いながら彼に目線を向ける。
「禁煙一週間、俺にしては持った方だろう」
「違いないな」
 ぎゅっと灰皿に煙草を押しつけ、腰を深く落としていた椅子から彼は立ち上がる。
「六十を過ぎて、孫離れも出来ない爺が偉そうに言うね」
「お前も娘や孫を持てば、少しは価値観が変わるさ……あん?」
 老人がドアの方を見る。
 ばたばたと階段を駆け上がる、せわしない足音。
「お、おはようございまーっす!」
 扉を開けたのは、いかにも高校生と言った風貌の小娘だ。
「うわ、煙草臭! 禁煙、また失敗したんですか?」
「待て華憐、学校はどうした。まさか、またサボったのか?」
「大介さんには関係ないでしょ?」
「俺に関係なくても、そこのクソジジイにゃ関係あるだろう」
 そう言って、大介と呼ばれた男は老人の方を見る。
「おぉ、華憐。今日も一段と綺麗だのう」
「……はぁ」
 いくつになっても孫離れの出来ない老人――伊月京太郎と、学校をさぼってはこの煙草臭い事務所で暇をつぶすその孫、伊月華憐。
 そんなわけのわからない二名と、事務所の副チーフを務めている彼――貴水大介でこの事務所はいつも満たされている。
「ところで大介、今月はまだ仕事がないようだが?」
「そう都合よく仕事があると思ってるのか? この零細事務所が黒字になったことなんて、数えるほどしかないだろう」
「確かに、最後に仕事をしたのは――だいたい、一か月前だったかのう?」
 手のひらを使い、日付を数え始める京太郎。
「そんなの、日付見れば一発でわかるでしょう? おじいちゃん」
「おお、そうだったな。大介、そこの左上にあるファイルを渡してくれ」
「しっかり把握できてるじゃねえか、爺」
 ばつの悪そうな顔で、ファイルを京太郎へと投げてよこす。
「ふむ……ふむ……なるほど、この時の仕事で大体百万近い金が支払われているな。そりゃ、確かに一カ月仕事が無くてもお前さん一人ならどうにでもなる」
「その百万のうち、七割をそこのバカ孫にポンと渡した祖父はどこのどいつだい?」
「えへへ、七十万円ポンとくれたよ」
「やれやれだ……」
 そう言って、再び大介は椅子へと腰掛ける。
「――ん、華憐。金やるから、煙草買ってきてくれ。この先にある煙草ショップ、俺の名前出せばなんとかなるから」
「飯野煙草店ですよね? わかった、行ってくるね」
 懐の財布を無造作に放り投げる。それを器用にキャッチし、スカートをひらひらさせながら華憐はドアを開けて外へと出て行った。
「うちの孫を邪見に扱うな」
「仕事の時に孫を一切関与させないと言ったのはお前だろ、爺」
 そんなことを言っていると、静かにドアが開く。
「ここでしか出来ないと伺ってきた、話を聞かせてくれるか」
 サングラスをかけ、黒い帽子と黒いスーツで決めた――四十代前後の男が一人。
 左手に持った扇子で、ぱたぱたと自分を煽いでいる。
「出来るかどうかは知らないが、とりあえず話は聞かせてもらおうか」

「うーん、なんで大介さんってこの辺りのお店みんな顔パスなんだろう」
 頼まれた煙草と、自分用のソルティライチを抱えて華憐はスキップしながら移動していた。
 事務所の階段を駆け上がる時、先ほど自分が買い物をするために出て行ったときにもすれ違った、黒いスーツの男と再びすれ違う。
 それを不思議に思いながら、華憐は事務所のドアを開けた。
「ただいま!」
「おぉ、華憐。御苦労だったのう」
「あんたには頼んでねえよ、ほら華憐。早く煙草よこせ、その大量のソルティライチもついでにな」
「えー? 大介さん、甘い飲み物嫌いっておじいちゃんが言ってましたよ?」
「あぁ?」
 京太郎を睨みつける大介。
 そんなことは露知らず、涼しい顔をして孫から貰ったソルティライチを飲む祖父。
「……ちっ」
「ところで、さっきすれ違った人は依頼人なんですか?」
「あー、ああ。そうなる。そうなるが、お前は関係ないだろう?」
「えー、たまにはいいじゃないですか。この事務所って、結局どんなお仕事をしてるのかわかりませんし」
 黒い髪をぱたぱたとなびかせ、駄々をこねる華憐。
「良い年頃の娘が暴れてはいかん」
 京太郎の優しい声でも、華憐はなお駄々をこねる。
「ここに就職するわけでもないだろうに、俺らの仕事なんて見たって面白くもなんともないぞ?」
「え、卒業したらここで事務するっておじいちゃんと良く相談してるよ?」
「……」
「はっはっは、まあ良いだろう。もう午後六時だ、事務所は終業の時間。一緒に帰ろうか、華憐」
 そう言われ、大介は時計を見る。確かに午後六時、この事務所的に言えば終業時間だ。
「あ、大介さん。ご飯どうするんですか?」
「……食ってけ、って言うんだろ?」
「そう言いながらいつも来てるじゃないか。なに、一人増えた所で負担が増えるのはうちの婿と華憐だ。問題ない」

 華憐とその父の飯を軽く平らげて、大介は帰路へついていた。
 タッパーに詰まった肉じゃがを片手に、しっかりとした足取りで自宅へと向かっている。
 時計をちらりと確認する。午後十時。
 いつものことながら、華憐の家で夕ご飯を食べると長居し過ぎてしまう。そう思いながら、大介は時計から目を離す。
 煙草を懐から出し、ポケットからライターを取り出そうとする。
「……おい」
 煙草をくわえたまま、大介は問いかける。
「流石、貴水大介……気配は消したつもりだったのだが」
 柱の陰、曲がり角から数人の男が姿を現す。
 風貌は似たり寄ったりで、どれも黒いスーツで身を固めている。
「腹いっぱいで、どちらかといえば気分が良いんだ。用件があるなら、早く済ませてもらえると有難いな」