父の海
海はョー 海はョー
でっかい海はヨー
俺を育てた おやじの海だ
突然、大粒の涙があふれ出て、わたしは自分でも驚いた。
深くしわの刻まれた日に焼けた父の笑顔がうかび、さまざまな思い出が脳裏をかすめていった。
幼い頃、ひざに抱かれてビールの泡をなめたこと、ほおずりされてヒゲがちくちく痛かったこと。ぽろぽろとこぼれる涙の数ほど思い出は浮かんでは消えていった。
父が亡くなったとき、わたしは泣かなかった。
そして、母も弟も──
父が死を宣告された日、夏までもたないと言われた春三月。医者の冷たい言い方に、死なせるものかと決意した。以来、わたしたちひとりひとりが父のためにできる限りのことをしようと努力してきた。良い薬があると聞けば、朝一番の電車で東京の大学病院まで買いに行った。
夏は越したが、結局その年の冬、父は五十六年の生涯を閉じた。
父は漁師だった。この千葉の勝浦で、代々続いた家業を継いだのだ。
勝浦は県内でも指折りのカツオの水揚げ港である。父もかつおを獲り、そのカツオを食べてわたしは育った。そればかりではない。アジ、サバ、イカ……四季を通じて新鮮な魚が食卓を彩っていた。わたしは魚と海が大好きであった。
しかしわたしは、この町が嫌いだった。古い因習にとらわれ、些細なこともすぐに噂になって広まる。そういうところが嫌でたまらなかった。だから結婚するなら絶対他県の人、と決めていたのだ。
ところが、わたしが嫁いだのは、実家から歩いて十分ほどのところ。わたしの夢はあえなく果てたが、父の獲った魚を食べられるという利点はあった。
わたしが結婚して一年経った頃父は病に倒れた。病院が実家よりもわたしの家の方に近かったので、毎日様子を見に行けたことは、娘として幸せだったと思う。父の死に際しても泣かなかったのは、精一杯父に尽くしてやれたという満足感からである。
姉が生まれ、次にわたしが母のおなかに宿ったとき、男の子だと思い込んだ父。わたしが生まれるとショックで一週間も寝込んだという。思春期のわたしは父とよく衝突し、そのたびにこの話を引き合いに出しては嫌みを言った。それでも父は海のように大きな心でわたしを包んでいてくれた。
父が亡くなって十七年。また今年もカツオの時期を迎え、港は活気に満ちている。かつてあの中に父の姿もあった。
今わたしは波の音、潮のにおいの中に父を感じている。
平成十三年 明窓出版刊
一ページのふるさと第二集
心に残るふるさとの話「わたしのふるさと文庫」編所収