京都七景【第六章】
「困ったなー。朝一番にお参りするつもりだったのに。駐車場でけがして病院に行ったから時間ばかりかかっちゃったわ。このあとも予定があるし、うーん、どうしよう」
彼女はしばらく考えてから、こう切り出した。
「あのう、いくつか質問させていただいてもいい?」
「ええ、いいですけど」
「何学部なのかな?」
「文学部ですけど」
「うーむ、そう来たか」
「えっ?そう来たかって、どういう意味です?」
「うん?ああ、いいのよ、いいの。気にしないでね。で、学科は?」
「仏文ですけど」
「あら、仏文なんだ、それはよかった、まるで渡りに舟とはこのことね」
「フランス文学の質問でもあるんですか。でも答えられませんよ、ぼくは講義に出ない、ごくありきたりの学生なんだから」
「いえ、そうじゃないの、つまり、そのう、今日ここを歩いているのはフランス文学の研究というわけじゃないんでしょう?」
「ええ、純然たる散歩ですけど」
「午後は大学?」
「いいえ、午後も純然たる散歩」
「ああ、よかった!」
「何がよかったんです?」
「あの、こんなことを言うのは大変心苦しいんですけど。思い切って言います。
純然たる散歩の君に、お願いします!車のドアに足を挟んだわたしを憐れと思って、坂本龍馬の墓まで案内していただけませんか。お願い、この通り!」
彼女は顔の前で両手を合わせた。一瞬、黒い瞳がきらりといたずらっぽく輝いたようなな気がした。ぼくは彼女の迫力に気圧され、不覚にも、つい頷いてしまった。それを見るが早いか、彼女は
「ありがとう、ほんとにありがとう。地獄に仏とはこのことだわ。やはり仏文だけのことはあるわね」
「何を言ってるのかよく分かりませんけど」
「ああ、いいのよ、ごめんなさい。気にしないでね。感謝のあまり、駄洒落を口走ってしまっただけ。でも、ほんとうに助かります」
そう言うと、問わず語りに身の上を話し始めたのさ。それによると、立教大学で日本文化史を専攻し、この四月に名古屋大学の修士課程に進んだんだそうだ。
「どうしても付きたい先生がいてわざわざ進学したんだけど、その先生、とっても厳しくてね。夏休み前に修論(修士論文のこと)のテーマと文献表を出しなさいっていうでしょう。京都を舞台にした明治時代の女性史を書こうとは決めているんだけど、それ以上の具体的なテーマが思いつかないの、それで、とりあえず大好きな龍馬のお墓をお参りすれば何か思いつくんじゃないかなって、藁にも(でも藁じゃ龍馬に失礼ね、せめて筏かな)すがるような、思いで来たんだけど、清水坂の駐車場でドアに足を挟んで時間が足りなくなるようじゃ、救いようがないわね、ああ自己嫌悪に陥りそう」
今こそ、と思って、ぼくは気になっていた質問を口に出した。
「どうしてドアに足を挟んだんです?」
「それって、いったいどうやったらドアに足を挟んだりできるのか、って質問にも聞こえるわね」
「あ、いや、決してそうじゃないんです。でも、かなり珍しいことだから、うまく理解できなくて」
「ほら、やっぱり、バカにしてるでしょ。でも、仕方ないわね、ほんとにばかなことをしたんだから。実はこういうわけなの。修論の準備に今日一日使えそうだったから、思い切って名古屋から車で出て来たのよ。そしたら清水坂の駐車場が混んでて、入り口まで長蛇の列でしょう、なかなか入れなくて。それでも仕方がないから、待つには待っていたんだけれど、この日差なものだから、車の中が暑くて、暑くて、のどが渇いて、渇いて、どうしても我慢が出来なくなって、自動販売機で飲み物を買おうとエンジンをかけたまま外に出たの。まだ前に十台は待っているから少しくらい運転席を離れても大丈夫だろうと思って。それで、ちょっと遠かったけれど販売機まで歩いて五分くらいで戻ってきたら、どういうわけか前にいた車までがいなくなって、後ろの運転手がかんかんに怒ってクラクションを鳴らし続けているでしょう、もうびっくりしちゃって。車を早く動かそうと運転席に入って急いでドアを閉めたら右足に激痛が走ったの、見たら足を挟んでしまってて、とにかくすぐに足を引いて急いで進んだら、今度は足が痛くてブレーキに力が入らないものだから、入り口で一時停止出来ずに、バーに衝突してしまったというわけ。そのときはもう自分でも何が何だか分からなくなってて、それでもサイドブレーキだけはかけて、外に出たら、やっぱり右足にけがをしてて、血が流れているでしょう。それを見たら、もうだめ、力が抜けてその場に座り込んでしまったわ。そしたら係りの人が二人飛び出して来て、一人はわたしに大丈夫ですかと声をかけて、わたしの腕を支えて近くにあった椅子に座らせてくれたの。もう一人は、わたしの車に乗り込んで邪魔にならない場所に動かしたかと思うと、すぐに戻ってきて、てきぱきと後続の車の整理を始めたわ。幸いバーに損傷がなかったので少し注意されただけで済んだけれどね。それから近くのお医者さんを紹介してもらったというわけ。ね、わたしってどうしようもないおっちょこちょいでしょう?」
なるほど、度を越した、おっちょこちょいだと、ぼくも思わないわけには行かなかったけれど、でもなんだか、一生懸命なところに、どことなくおかしみと可愛らしさとがあって、同情しないわけには行かなくなっていた。
「分かりました。それなら、もちろん、案内させてもらいますよ」
「わあ、うれしい。ほんとうに有難うございます。ご面倒かけますけど、よろしくお願いしますね」