死にたいくん
痛くさえなきゃ、死にたいよ。
今日、仕事でミスして課長に怒鳴られた。課長のこともキライだし、いちいちミスする自分にもうんざりしてしまう。
あたし、仕事、できないんだ。
それだけならいい。あたし、美しくもないの。
それだけなら、まだまし。性格が暗いんだ。人見知りが強くて、友達も少ない。会社の人たちには倦厭されて、飲みにも誘ってもらえない。
せめてお金があったらな。せめて夢があったらな。得意なもの、趣味、何かコレといったものを持っていたら。
結婚したいなあ。ところが、あたし、恋の予感さえない。
いいことなんてありはしない。例えるなら、曇り空と凪の海。延々と鬱陶しい灰色が広がるばかり。時折雨が降っても、打ちのめす意図があるかのように叩きつけ、苦しいばかり。決して帆を張る風を呼ばない。
つまらない人生。あたし、何のために生きているのだろう?世の中の役に立つわけでもないし、自分を幸福にもできない。
生きている意味なんて、ないよ。蚊の方がよっぽど価値がある。だって蚊は血を吸って子孫を作って種の存続をはかるけれど、あたしはセックスさえしていないんだもん。生物としてもまるきり役立たずだ。
息をしているだけで地球の二酸化炭素を増やしてしまうなら、いっそ死んだ方がいい。
本当は死にたいんだ。幸福ではない人生は、面倒くさいだけ。
でも、痛いのが怖くて自殺もできない。自殺して万が一助かったものの、後遺症でも残ったら、今より状況が悪くなる。
だれか、痛くない方法で、いつのまにか、確実に、殺してくれないかなあ。
死にたい死にたい、と繰り返し呪文を唱えながら独り暮らしの部屋のドアを開けた。
玄関に、男がうずくまっている。わずかに顔を上げ、あたしが帰ってきたことを、ちらりと目だけで確認した。
ああ、そうだったね、こんな日は「彼」が見えるのだった。
彼は、たぶん幽霊だ。でも、あたしは死神だと思っている。あたしが死にたいと考えるときだけに見えるから。
あたしは、彼を「死にたいくん」と呼んでいる。
死にたいくんは、日中は玄関にうずくまっているだけ、まるで無害だ。身体は透けているから、出入りの邪魔にもならない。
いつから死にたいくんが見えるようになったかは、もう憶えていない。ただ、しょっちゅう死ぬことばかり考えているあたしだから、妙なものが見えても不思議ではないだろう。
死にたいくんは、死神のくせに、まだあたしをあの世へ連れていくことができない。光を避けてうずくまるしかないなんて、少しかわいそうだ。
ところが、日中は消極的な死神も、夜、あたしがベッドに入ったとたんに、あたしのそばにやって来る。
足の先から頭のてっぺんまで、あたしはすっかり金縛りにされてしまう。直立不動に硬直して一本の棒のようになったあたしに、死にたいくんは抱きついてくる。
あたしの顔にその青白い頬を寄せ、まばたき一つせず、じっとあたしを見つめている。ふー、ふー、とあたしに冷たい息を吹きかける。
でも、あたしは恐ろしいと思ったことはないの。むしろ、ほっとしている。
たとえ死神でも、一緒に添い寝してくれるのが、ありがたい。寂しい独り寝が癒される。
人間としても女としても、まるで役立たずなあたしを、こうして抱いてくれるのは、死にたいくんだけだ。死にたいくんだけが、あたしと共にいることを望んでくれる。
あたしを必要としてくれるモノがいて、あたしを何かの価値ある存在のように見つめてくれるのが、うれしい。
心の中で「殺して連れていっても、いいんだよ」と、死にたいくんにささやきかける。
しかし、それを知ってか知らずか、死にたいくんは、あたしを見つめて抱いたまま、身じろき一つしない。
今夜もずっと抱いていてもらえそうだ。あたしは安心して、いつのまにか眠りに落ちてしまう。
朝になると、死にたいくんは、また玄関に戻っている。うずくまる影は昨日よりずっと薄い。あたしが精神のバランスを取り戻すと、彼は完全に見えなくなってしまう。
でも、人生は変わらない。低調なことが当たり前の、嫌なことだらけの毎日だ。
ある日、また落ち込んで部屋に帰ってきた。死にたいくんに気づきながらも、現実があまりに辛く、あたしはさっさとベッドに入ってしまった。
死にたいくんはついてこなかった。いつものようにあたしを金縛りにして抱きついてもこない。しかし、あたしは泣きじゃくり、死にたいくんにかまわなかった。
泣き疲れて眠っていたところ、夜中、息苦しくて目が覚めた。
身体が動かない。例の金縛りだ。
死にたいくんは抱きついていたわけではなく、あたしの首を絞めていた。まばたき一つせず、青い顔の無表情で、ぎゅうぎゅうと締め上げていく。
息のできない苦しさと、のどの骨が押さえこまれる痛みに、あたしは死にたいくんの腕を振り払おうとした。しかし、指一本動かせず、抗いようがない。内臓すべてを吐き出さんばかりの苦しみに、体内のあちこちが騒いでいる。
死ぬということは、こんなにも辛く苦しいものだったのか。
死にたいくん、話が違うよ。
いや、違わなくはない。あたしは、いつも死にたいくんに殺してほしいと願っていたのだから。それを、ついに死にたいくんは実行しているだけだ。
ところが、あたしは裏切られた思いでいっぱいだった。まるで、信じていた恋人にそうされたみたいに。
だって、死にたいくんだけがいつもそばにいてくれたから、心の支えに思っていたの。
満足に生きられないあたしのすべてを許すように、抱きしめてくれた。最後の最後まで味方でいてくれるのだと、信じていた。
死にたいくんは、あたしにとって、最後の王子様だった。
ところが、今、死にたいくんは、明らかにあたしを殺すつもりで首を絞めている。
最初からそのつもりだったの?あたしを狙っていたの?あたしを理解してくれていたわけではなかったの?
あなたまで、他のみんなと同じで、あたしに生きている価値がないと思ったから、連れていくの?こんな苦めるやり方で?
分かっている、矛盾しているのは、あたし。でも、あたしは哀しい。
死神にまで否定されてしまった。ああ、だから死ぬんだ。
幸福なものなら、あたしだって生きていたかったかもしれないのに。
死にたいくんの、バカ――。
朝、無事に目が覚めて、あたしは自分が生きていることを知った。
死にたいくんはいなかった。いつもなら、影くらいは残っているのに。
どうやら死にたいくんは去ってしまったらしい。
二度と戻ってこないのかな?今度、あたしが死にたいと思っても、彼はそばにはいてくれない。
あたしが、いざとなったら死を拒んだから。あたしは、死にたいくんに、うそをついた。
朝日を浴びながら、わんわん泣いた。この先も、あたしは死ねないがために生きていかなければならないのに、だれがあたしの心を埋めてくれるというのだろう。何を頼りに生きていけばいいの?
頼りの「死」が遠ざかり、あたしは本当の空っぽになってしまった。
数日後、あたしはまた世界中の悲愴を背負って帰宅した。
玄関には、男がうずくまり、あたしをちらりとのぞいた。