ひとつだけやりのこしたこと
「夜遊びにいくの。電話はお休みね。ごめんね。」というメールが来た時は「行ってらっしゃい、楽しんできてね。」とふつうに返事した。
それにしても、よかった。
お酒も飲まないし、友達と遊ぶ、ということをさとみはほとんどしてこなかった。離婚してからは借金の返済に押しつぶされそうになって、もともと倹約家のさとみは極度に切り詰めた生活をしていた。月一回は仕事を終えてから夜間の急病診療所の仕事まで引き受けていた。
たかしの親から毎月20万円ずつ返済されるようになったんだから、少しは自分の楽しみも見つけたら、とわたしが勧めても、
「全然大変じゃないよ。屋根があって、暖かい布団で寝られて、わたしはしあわせな方だよ。それに時々つださんと会って、毎日電話して、すごくぜいたくだよ。」
それより半月前、さとみは「ピアノのレッスン、はじめたよ。いつ行ってもいいの。弾きたい曲を弾けるまで教えてくれるの。大好きなB'sの『いつかのメリークリスマス』弾きたい、って言ったらわたしのレベルにあった編曲の楽譜を作ってくれたんだよ。」
「すごいね。今度来た時、キーボードで弾いて。」
「だめー。たまあにしか行けないから、つださんに聴かせられるまで1年はかかるね。」さとみは大学時代軽音楽サークルでピアノ担当だったのに、生活に追われてそのあとは持っている電子ピアノに触るひまもなかった。
さとみはようやく、自分の人生を楽しんでもいい、と思うようになってきたのだ。
次の夜、
「昨日はごめんね。カラオケに行ったの。めちゃ楽しかった。つださんと2回カラオケに行ったでしょ。カラオケって楽しいな、って思ってたの。」
「誘ってくれた人がいたんだ。よかったね〜。」
「ケンちゃん。それがね、めちゃくちゃ歌がうまいの。もう、聞き惚れちゃった。」
「わたしより?」
「ぜんぜん。だって、音外さないもん。」
「・・・そうなんだ・・・二人だけでいったの?」
「うん。」
どきどきしてきた。
ケンちゃんのことは少し前に聞いていた。たかしの仕事の関係の人で、メールでたかしのことなどを打ち明けていて、向こうからは自分が離婚したいきさつなどを打ち明けていた。さとみより10歳下の40代で、とてもつらい境遇を生きてきて、つらい離婚を経験したのに、すごく明るくて前向きな人だという。
それにしてもカラオケという密室に若い男性と二人っきり?
「あの、何かされなかった?」
「なに?」
「あの、手を握られたとか、胸を触られたとか・・・」
「それはつださんでしょ!」
「ちがいます!!初めての人にわたしはそんなことしません!っていうか、相手の承諾を得ないで何かしたことなんて一度もありません!だけど、世の中の男はするでしょ。そして女の人はそれを愛情と勘違いしたりするでしょ。」
「わたしたち、そんなのじゃないの!ケンちゃんってすごくいい人なんだよ。ただカラオケしてお話ししただけだよ。」
さとみって、なんでこんなに無防備なんだろう。無邪気な子供みたいだ。それにさとみは自分の女性としての魅力に全然気づいていない。いいのかな?
でも、ほんとうにさとみは変わりつつある。明るく積極的に。
この時点でこれから起きることをわたしは想像だにしなかった。
作品名:ひとつだけやりのこしたこと 作家名:つだみつぐ