濡れ髪の香り
彼女は肩にタオルをかけて椅子に掛けた。
まだ濡れている髪の乾く間、日記代わりにキーボードを弾く。
昨日の夜は掌編小説だった。
「今日は、何を書こうかな」
溜め息をひとつ。キーボードを打つものの何度も消して書き直す。
どの言葉も残したい言葉ではないようだ。
「詩を書いてみようかな」
頭の中で言葉が通り過ぎる。
「言葉に残しておきたいことはないかしら」
考えて迷っていると言葉はどんどん嘘になってゆく。
「詩は書けない」
繕った言葉しか浮かばない。本当の気持ちが綴れない。
数時間前。
彼女は大切な人と些細な事から喧嘩になった。
いや、喧嘩とは言えない言葉のぶつかり合い。
お互い相手を思うがゆえに出た言葉だった。
「どうしてわかってくれないの!」
「でも見方を変えたらあなたのことを思っているんじゃない?」
「だって私はそうだったもの。きっとあなたもそう思うわ」
「そうだけど、こういうことだってあったでしょ」
「それが本当だってどうしてわかるの?」
言葉と口調で擦れ違う心の溝は広がってゆく。
もうどちらが終結の言葉を発するかになってきた。
彼女は、じっとその時の言葉を探していた。
やっとのこと、口に出かけたとき、相手のほうから切られてしまった。
残るのは、重い心の破片。
帰り道。
街中をいつものように歩いてはいても、抱える気持ちの重さに何度も足元が揺らぐ。
このまましゃがみこんで泣いてしまおうか。
夕焼けでも見るように空を見上げて零れそうな涙をこらえようか。
唇を結ぶことだけが、感情を塞き止めているかのようだった。
部屋に着く頃にはもう空は彼女の心のように暗く沈んでいた。
暗い部屋。
誰が迎えてくれるわけではない。
でも今日の彼女にはそれはとても好都合に思えた。
もう、誰も見るものはいない。化粧が流れ落ちるくらい溢れるままに部屋へと上がった。
バッグを床に落とし、湯沸しのスイッチを入れにゆく。
足先は迷うことなく、浴室へと向かっていた。
浴室の扉。
ここを閉めれば、何も邪魔はない。
シャワーの水栓を開く。暫くは冷えた水だった。足先にかかる冷たさに片足を持ち上げる。
まるで嫌な事から逃げるさっきの自分のような気がした。
「ごめんね。本当はわかってるつもりなのに……」
彼女の足に温かな湯を感じるまで頬に温かなものが流れた。
流れる湯。
シャワーヘッドをフックに掛けたまま、いきなり頭からかぶった。
心地良い温度の湯が、冷えていた心を温めるように 固まったままの肩を優しくほぐすように流れる。
両方の掌で覆っていた顔を上げる。
もう涙は止まったようだ。そのまま化粧を流す。かきあげる髪は街の臭いがするようだ。
丁寧に洗う。表皮の汚れではない。心の垢かもしれない。
白いバスタオル。
積み上げた間のタオルを引き抜いた。今は白いタオルの気分だった。
変えたばかりの柔軟剤の香りが鼻に届いた。
「うん。この香りも悪くない」
両端を掴んで顔をくるんで匂いを嗅ぐ。
少しだけ、微笑むことができた。身体に巻きつけたまま着替えを取りに部屋へと戻った。
風呂上り。
ルームウエアをはおり、肩にタオルをかけて椅子に掛けた。
髪先から雫が落ちる。お気に入りのコンディショナーの香りもまだ濡れた髪のせいでその匂いを漂わせない。
湿った髪がまだ晴れない気持ちと似ている気がした。
タオルで髪を揺らすように撫でて乾かす。もう雫は落ちないようだ。
濡れている髪が乾く間、日記代わりにキーボードを弾く。
生まれる文字。
何度も消されていくのに生まれようとしている言葉がある。
まだ未熟なまま。だけど確かな言葉になろうとしている。
素直に生まれた言葉が自分を励ます。
きっと自分の心の文字を綴り終えたら優しくなれるだろうか。
明日また大切な人に会えますようにと願いを込めて。
頬に触れた髪があなたの優しさのようだった。
― 了 ―