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珈琲日和 その15

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 私は中ぐらいの鍋にたっぷりのオリーブオイルを引き、みじん切りにしたニンニクと生姜、クミンシード、そしてアニスを入れて香りをつけ、そこに更にみじん切りにした玉葱を入れ飴色になるまで弱火でじっくりと炒めます。そこで気付けば良かったのですが、私はすっかりこの作業に時間がかかると言う事を忘れていたのでした。玉葱が完全な飴色になる頃には1時間近くかかっていました。けれど、不思議と彼女はちゃんと待っていてくれるだろうという確信と、この未体験のカレーを作り上げるという楽しさに満たされ、すっかりカレー作りに没頭していました。
 それは、店がオープンしたての頃、まだ知名度が低かった頃から流行らなくなる間にすっかり忘れてしまった懐かしい感覚でもありました。あぁ、そう言えば私はコック長としてこの大きくなった店の厨房を取り仕切るようになってから、ここまで夢中になって料理作りに没頭していた事があったのだろうか? いつも後輩に任せてばかりで、自ら腕を振るう事自体がなくなってはいなかっただろうか。唐辛子、ソルト&ペッパー、カルダモン、ターメリックで味を馴染ませたベースにトマト缶を入れてかき混ぜながら、私はそんな事を思っていました。
 クリームコロッケカレーライスが出来上がったのは、3時のおやつになるかならないかぐらいの時刻でした。お昼ご飯にしてはお腹が減り過ぎてしまっているし、おやつにしてはちょっとボリュームがあり過ぎるそのカレーライスを、彼女は微動だにせず、ただ微笑みを称えたままで待っていてくれました。
「・・・ごめん。随分時間がかかってしまったよ」
「いいの。気にしないで」
「これ。上手く出来たかどうか、正直わからないけれど・・・」そう言って、私が差し出したカレーライスを、彼女は一口スプーンで掬いました。彼女がスプーンでカレーライスを或いはクリームコロッケを割って、或いは一緒に食べれば食べる程、芳ばしい香辛料の香りとクリームの柔らかさがまるで音楽のように混ざり合って食堂を心地好く満たしていくのを感じました。それはかつて、この食堂がお客様で埋まっていた頃を彷彿とさせました。どのテーブルに座っていたお客様の顔にも幸せと笑顔が張り付いていたあの頃。同じように料理から奏でられる音楽がここを満たしていた。すっかり色褪せてしまっていたその記憶に、思わず、涙が出そうになりました。
「ご馳走様でした」
 いつの間にか彼女はすっかり食べ終わり、皿は綺麗になっていました。彼女は食べ物にはとてもシビアな舌を持っているので、美味しいものは残さず食べる事を私は知っていました。
 良かった。彼女の口に合ったのだと久しぶりに見る彼女の満足そうな顔と笑顔に僕は嬉しくなりました。彼女はいつかのように丁寧にナプキンで口を拭くと、綺麗に畳んで皿の脇に置くと、側に立ち尽くしている汗だくになっている私を真っ直ぐに見つめて口を開きました。
「・・・あたし、来月結婚する事になったの」
 そう切り出すと、彼女は私と会えなかった間の事を静かに話し始めました。
「同じ会社の人。その人はあたしと同じ食感覚を持った人なの。一緒にいると自然と何もかもが馴染むような感じで、あぁ、あたしはこんな人と生涯一緒にいるのかしらと思った」
 脳裏を横切らなかったと言えば嘘になるかもしれませんが、私は彼女がそんな事になっていると信じたくはなかったのです。彼女に会えない間も、自分に都合が良い事ばかりを勝手に理由つけて、現実を考えようともしなかったのです。なので、今正に目の前で進行している事実になす術もついて行ける術もありませんでした。彼女は呆然としている私を見つめ更に続けます。
「あなたが嫌になった訳じゃないわ。好きよ。でも、違うの。あなたは嘘をついてる。とっても上手にね。周りにも、自分にも、作る料理にさえも・・・」
 やっぱりそうだったのかと、曖昧だった全ての答えがようやく導き出されたような気がしました。平凡過ぎると思っていた当たり前の日常に覆われて見えずらくなっていた答えが。自分でも気付こうともせずに、何も考えようともせずに、変わる筈なんかないんだとばかりに、ただその日常に浸かりきってふやけていたのです。そんな私に彼女は冷水をぶっかけてくれたのです。
「だけど、このカレーライスは、本当に美味しかった。初めて食べた、あの時のカツレツみたいに。だから、あなたはまだ大丈夫。これからは、嘘なんてつかずにきっと進んでいけるわ」
 そう言葉を繋ぐ彼女の声はまるで優しくて、これから別れようとするような声にはどうしても聞こえなくて、私は何も言えずに唇を咬みました。そうこうしているうちに、彼女は徐に立ち上がりました。なにか、言わなければ。なにかを・・・けれど、情けない私の喉からは声すらも出ませんでした。「さようなら」そよ風のように言った彼女は店を出て行きました。
 私はしばらくそのまま、俯いて立ち尽くしていました。目の前には彼女が残していったお皿とスプーンと行儀良く畳まれたナプキンがあるだけでした。と、不意に背後でぐぅとお腹の虫が鳴きました。振り返ると、いつからいたものか店長が泣きながら、お腹を鳴らして立っていたのです。
「・・・僕にも、そのカレーライスくれない かな?」


「それから、店長はカレーライスを食べながら、こんなに美味い料理を作れる君なら大丈夫だからと言って、一生懸命泣きながら私を励ましてくれました。けれど、私はぼんやりと、彼女の選んだ相手は彼女と同じように肉好きなんだろうななんて考えていたんです」
 老紳士はそう言いながら、残ったアイスコーヒーを飲んで、少しだけ軽く笑いました。
「それ以来、私は飲食業からすっかり遠ざかってしまい、建築の設計なんかをして生計を立てるようになり、人並みに結婚もして子どもも授かりました。けれど、その後も何か折りがある度に、よく思い出してはいたのですが、やっぱり疑問だったのです ・・・その時に自分で作ったクリームコロッケの乗ったカレーライスは、トマトの酸味が強過ぎてちょと水っぽくて、到底お客様にお出し出来るような代物ではありませんでした。それなのに、彼女も店長も一番美味しいと言って食べてくれたのです。まだ若かった私には、当時二人の言っていたそれがどういう事なのか、本当にはよくわかってはいませんでした」
 老紳士の話にじっと聞き入っていた僕は、どういう事だろうと首を傾げました。 生真面目そうに目を細めて言葉を選ぶ老紳士の柔らかな口髭が生えた口元には、ついさっき召し上がったカレーが一滴だけついていました。それをお知らせしようとした時、不意に紳士の指がそのカレーに伸びて、品良く髭から拭い取られました。
「あのカレーは、ありのままの私、そのものだったのではないだろうかと、ようやくこの歳になってから思うのです。このお店のクリームコロッケカレーライスは、あの頃の新鮮で懐かしい疑問をいつも思い出させてくれます。なので、老い先短い身ながらも、昔の思い出の味を忘れてしまうのが忍びないが故に、ついついここの通いが止められないのですよ」
作品名:珈琲日和 その15 作家名:ぬゑ