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さよなら、僕の世界

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 青い血管と垂直に交わる様に、朱色の線が短く走る。刻まれているというよりは、皮膚の内側にある肉がうっすらと浮き出ているといった感じだ。明日になれば茶色く変色してしまう。
 実際、僕の腕には枯れてしまった傷跡が幾つもある。刹那の時間だけ、朱く綺麗に浮き上がり、一晩寝れば茶色く錆びてそのまま居座る。死んでしまって、時が経ってから発見される化石みたいに。つぼみさえも作れない体で放置された桜の大木みたいに。先生に酷評されて薄汚れた原稿用紙みたいに。
 まるで僕を苛むためだけの存在のように、その傷跡は僕の両腕に点在する。
 醜く儚く傲慢で。
 文庫本からふとした瞬間に落とした目に映し出される、見ても見ても見慣れないこの光景。本の中の主人公は、涙を零していた。
 泥沼に嵌ったかの如く、重く虚しくのしかかる気分の急降下。頭を振って暗い気持ちを投げ捨てる。ポイ捨て。
 集中力が切れ、諦めて帰り支度を始めた。
 文庫本をリュックに押し込んで、カウンターへと目線を移す。
 深く頭を垂れて、本の世界の住人と化している彼女。髪は一つに結んでいるからつむじは見えないけど、大きな眼鏡のフレームが、今にも落ちそうなくらい不安定なバランスで鼻先に載っていた。ぺらりと頁をめくる音。くいっと眼鏡を上げる指。ぽきりと鳴る首。すんすん空気を吸い込む鼻。
 全てを舐めるように見つめてから、僕はリュックを背負って図書室をあとにする。冷たいのはドアノブだけで、埃臭い廊下の暑さにくたばりそうになった。なんとか足の指に力を入れて、踏ん張る。揺れたのは視界だけだった、今日も僕は生きていた。残念。
 転がるように階段を駆け下りて、へなちょこりんの手で下駄箱のロッカーを開ける。またもや枯れた傷たちが僕の視界に割り込んだ。しつこいな、もう。
 スニーカーをつっかけて、よろけながらも外へ出た。蝉の鳴き声がうるさい。野球部の掛け声がうざい。吹き荒ぶ風が、僕を何処かへ運ぼうと企んでいるようだった。何処へ?
 別に僕は何処だっていい。ただちょっと、地獄は遠慮したい。
 駐輪場までふらふら歩き、スラックスの両ポケットを漁る。冷たい感触が指先を伝って心臓までも冷やしてしまった。ぶるりと身震いする。
 今日から夏休みなのに、僕のすることと言えば、図書館で本読んで、自転車に乗って電車に乗って、荒れ果てた巣穴へ帰るだけ。部活なんてとっくにサボり魔の地位を獲得し、知らない間に無所属。
 虚しい自由だった。
 まあ、文句の言える立場にいないけど。
 ぐっとハンドルを握って、風を切り校門を出る。一台のワゴンアールが、僕の横を通り過ぎて行った。悪趣味な内装だった。ワゴンアールが可哀そうだ。僕ならもっと。
 僕ならもっと、もっともっと。
 何だって言うのだろう……?
 僕ならもっとセンス良く飾り立てる? 僕ならもっと清潔に保つ? 僕ならもっと……?
 僕ならもっと上手くやれるのに……?
 ばかばかしい。僕は何もできないのに。僕は、そうだ。壊すことだけ。
 壊すことならそれなりに得意だった。
 友達の真新しいラジコンカーや、いじめっこの黄色い傘、ペットのリード、父さんのパズル、公園の花壇、借り物のゲーム、先生との信頼関係。それと、順風満帆だった誰かさんの人生。あと、家庭。
 幾らか話は盛っているとして。
 壊してしまったものはもう直らないんだと、元通りにはならないんだと、先生は涙ながらに教えてくれた。謝っても弁償しても、埋まらない溝や傷は、風化することなく蒸発することなく、貴方の心に、相手の心に、しつこく煩わしく残り続けるのだと。痛みとは無遠慮で、且つ慈悲深く、そして残虐で、陽だまりみたく暖かいけど。
 屈したら二度と立ち直れない人間だっているのよ。
 でも、そんなの、僕の知ったことではない気がする。努力が足りない、はい、やりなおし。
 涙の数だけ強くなれるだなんて、一部の人間だけだ。なんていう屁理屈をこいてみる。
 僕は、彼女と幸せになりたかった。そうするには、僕が強くならなきゃいけないと思った。だから僕は惜しみなく泣いた。彼女の背中を追いかけた。時にその背中を支え、さすり、慰め、抱きすくめた。ただの自己満足だとも知らずに。
 欲望に従順なこの僕は、彼女との間に溝を掘り続けた。彼女はその溝の中にひとりでうずくまって、僕なんか嫌いだと言った。とっくの昔に崩れたはずの心の音が、何光年もの時を経て、ようやく僕の耳に届いた瞬間だった。
 最初は、もっとふんわりとしていて、母の腕の中のように、優しかったはずなのにな。
 どうして、いつも。
「どうしていつも僕は、こうなんだろうな」
 嗚呼、情けない。力なく笑う。
 見失った感情に、間違った名前を付けて、間違った餌を与えて、肥え太らせ破裂させた。また、壊した。
 
作品名:さよなら、僕の世界 作家名:もの