アーク2-2
☆2-2
ベルはポケットの中の金属片を弄った。
金属片は、時計の一部のようだ。文字盤部分はひしゃげて見る影もない。大きさの割に重く、表面の金メッキがはがれ、ところどころに焼け焦げたようなくすみと溶融の後が見えるが、その下地の色は白紺青に輝いている。銀か、もしかしたら白金かもしれない。よくよく見れば、時計としての意匠もなかなかに凝っていて、破壊されているとはいえ、その価値を考えると胸が躍る。
この壊れた時計は、昨夜の魔物、トゥルヌスとの遭遇の後に拾ったものだ。魔物が何処からか拾ってきたのか、もしかしたら、犠牲者の持ち物なのかもしれない。もしそうだとしても、犠牲者には申し訳ないが、有難く家計の足しにさせてもらうつもりである。
取り上げられるのが嫌でユノには報告しなかったが、今になって考えてみれば、犠牲者の可能性を示す証拠であるので、提出すべきだったかもしれない。……いや、なにもあの魔物が落としたと決まったわけではないのだ。ベルは自分にそう言い聞かせた。
「おい、だから聞いてんのか? 人の話はちゃんと聞けよ」
アークの不機嫌そうな声が耳をつく。
「聞いてる聞いてる」
適当に相槌を打った。
「お前な、人間の分際で十二柱神になんて言葉遣いをしてるんだ。頭おかしいんじゃないのか」
あくびを噛み殺す。実家の農作業に比べれば温い仕事だが、眠れなかったのはやはりキツい。なんだか肩が凝ったので、ベルは腕を大きく回した。気のせいか、このソージキを持っていると疲れやすい気がする。乗るのにあれだけ神経を使えば当然かもしれないが。
「まったく、人間たちのモラルの低下にはあきれ果てるな」
空からは朝焼けも消え、雲一つ無い快晴が広がっている。とはいえ、秋風は徐々に冷たさを増してきている。どこかで防寒具を調達する必要があるかもしれない。
「聞いてるのか? おい。人の話はちゃんと聞けって、学校で習わなかったのか?」
レーンからもらった地図を広げてみる。
開いた瞬間、ベルは唖然とした。丸っこい字に、蛇ののたくったような線がちりばめられ、各所にデフォルメされた猪(のような物体)や狼(のような物体)や草花(なぜか全部チューリップだ)が配置されている。道を示すと思わしき線は、大げさに曲がりくねりながら幾重にも分岐をし、何処を指し示しているのかさっぱり分からない。それが示す地点は、ベルの知る他のどんな地図にも当てはまらないような気がする。と、言うか、真面目に見る気さえ失せてくるような代物だ。これはユノが描いたのだろうか。
「なにこれ。さっぱりわかんないじゃない」ベルは舌打ち交じりにぼやいた。「ったく、使えねぇなぁ、あのババァ」
「おい。だから、神に対してそんな台詞を吐いていいと思ってるのか、お前は」
アークはしつこく突っかかってくる。
「うるさいなぁ。じゃあ、あんたも見てみなさいよ」
「――なんだぁ、こりゃあ」アークは地図を受け取ると、眉をひそめた。「誰が描いたんだこりゃあ。幼稚園児か?」
「そりゃあ、あのオバさんなんじゃないの?」
アークは舌打ち交じりに言った。
「うすうす思ってたけど、あのババァ、ちょっと頭おかしいんじゃないのか」
「あんたも言ってんじゃないのよ」
「そ、それはそうと」アークは慌てて話を変えた。「お前、そんな格好で旅するつもりなのか?」
「なになに、服買ってくれんの?」
思わず身を乗り出す。
「そうじゃなくて、制服が有るんじゃないのか?」
アークは引き気味に言った。
「貰ってないのよねぇ、それ。別に要らないけど」
「武器は? 護身用に必要だろう」
「あんたが守ってくれるんでしょ。そのためのお供の天使じゃないの」
「天は自らを助くものを助けるって言うだろうが。……仕方が無いな」
アークは懐をごそごそとまさぐると、玩具のように小さなナイフを取り出した。どこかにポケットでも付いているのだろうか。
「――それでどうしろと?」
アークの丸っこい手の上でちらちらと火花が散ると、玩具のナイフがみるみる大きくなり、一振りの短刀へと姿を変えた。それは、あの魔物、トゥルヌスを撃退した時に使ったものだった。
「一応、それを持っておけ」
「くれんの?」
「やらねえよ! 友達からもらった大事な物なんだから、失くすなよ」
「友達って、例のメーフィスって天使?」
そういえば、アークは行方不明の友人を探していると言っていた。
「ああ」
アークは素っ気無く言うと、また地図に目を落とした。。それ以上のことを言う気はないようだ。
ベルは受け取った短刀を腰帯に差しておいた。
「よし、じゃあ行くか」地図を丸めながら、「とりあえず、北へ向かえばいいんだろう、たぶん」
「えっ、もう行くの? あたし昨日、一睡もしてないんだけど」
「一日くらい寝なくてもなんとかなるだろ。俺は急いでいるんだ、行くぞ」
言うが早いか、アークはさっさと飛び立ってしまった。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
慌てて、ベルもソージキに乗って後を追った。
半島北部辺り。
都市部から大分離れて、空にはもう、飛び交う天使たちの影もない。天使はいまだ人数が少なく、都市部やその周辺にしかいないのだ。耕作地帯で人口もまばらであるこの周辺に、余計な人員を割く余裕はないのだろう。
眼下には広大な稲田が広がっている。このあたりで稲作は珍しい。
稲は今、ちょうど収穫期だ。収穫した稲を天日干しにして乾燥させる、稲杭掛けがあちこちに立てられているのが見えた。しかし収穫はまだ始まったばかりのようで、刈り入れを待つ黄金色の実りが多数、頭を垂れて佇んでいる。そこへ秋風が吹くたび、黄金色の津波が走ってゆく。その光景の前には、ただただ感謝という言葉しか思い至らない。秋の実りは、命を育てる恵みなのだ。
あくびを一つ。
前方を飛ぶアークの耳が大きくはためき、ベルの視界を遮る。ものすごく邪魔だ。ベルはなんだかまたイライラしてきた。
そのアークはというと、例の地図を眺めながら、眉間に皺よせぶつぶつとうなっている。
「――なんだよこれ、さっぱり地図がわかんねえな」
「ああ?」
「さっぱりわかんねぇんだって、地図が。現在地すら分からん」
アークはしきりに首を傾げている。
「いいわよ、もう。適当に北に行けばいいんでしょ」
眠くてイライラしていたベルは、適当に受け流した。
ふと、視界の端に黒い影が映った。
目を向けてみると、それは何かしらの建造物のようだった。四角い大きな塔が幾つかと、その周囲に無数の建物が針山のようにひしめいている。このあたりにあんな大きな街があるなんて、聞いたこともなかった。
止まってアークにたずねると、アークは相変わらず地図とにらめっこしつつ答えた。
「あれはたぶん陽極の一つ、第五陽極だな」
「陽極?」
ベルはポケットの中の金属片を弄った。
金属片は、時計の一部のようだ。文字盤部分はひしゃげて見る影もない。大きさの割に重く、表面の金メッキがはがれ、ところどころに焼け焦げたようなくすみと溶融の後が見えるが、その下地の色は白紺青に輝いている。銀か、もしかしたら白金かもしれない。よくよく見れば、時計としての意匠もなかなかに凝っていて、破壊されているとはいえ、その価値を考えると胸が躍る。
この壊れた時計は、昨夜の魔物、トゥルヌスとの遭遇の後に拾ったものだ。魔物が何処からか拾ってきたのか、もしかしたら、犠牲者の持ち物なのかもしれない。もしそうだとしても、犠牲者には申し訳ないが、有難く家計の足しにさせてもらうつもりである。
取り上げられるのが嫌でユノには報告しなかったが、今になって考えてみれば、犠牲者の可能性を示す証拠であるので、提出すべきだったかもしれない。……いや、なにもあの魔物が落としたと決まったわけではないのだ。ベルは自分にそう言い聞かせた。
「おい、だから聞いてんのか? 人の話はちゃんと聞けよ」
アークの不機嫌そうな声が耳をつく。
「聞いてる聞いてる」
適当に相槌を打った。
「お前な、人間の分際で十二柱神になんて言葉遣いをしてるんだ。頭おかしいんじゃないのか」
あくびを噛み殺す。実家の農作業に比べれば温い仕事だが、眠れなかったのはやはりキツい。なんだか肩が凝ったので、ベルは腕を大きく回した。気のせいか、このソージキを持っていると疲れやすい気がする。乗るのにあれだけ神経を使えば当然かもしれないが。
「まったく、人間たちのモラルの低下にはあきれ果てるな」
空からは朝焼けも消え、雲一つ無い快晴が広がっている。とはいえ、秋風は徐々に冷たさを増してきている。どこかで防寒具を調達する必要があるかもしれない。
「聞いてるのか? おい。人の話はちゃんと聞けって、学校で習わなかったのか?」
レーンからもらった地図を広げてみる。
開いた瞬間、ベルは唖然とした。丸っこい字に、蛇ののたくったような線がちりばめられ、各所にデフォルメされた猪(のような物体)や狼(のような物体)や草花(なぜか全部チューリップだ)が配置されている。道を示すと思わしき線は、大げさに曲がりくねりながら幾重にも分岐をし、何処を指し示しているのかさっぱり分からない。それが示す地点は、ベルの知る他のどんな地図にも当てはまらないような気がする。と、言うか、真面目に見る気さえ失せてくるような代物だ。これはユノが描いたのだろうか。
「なにこれ。さっぱりわかんないじゃない」ベルは舌打ち交じりにぼやいた。「ったく、使えねぇなぁ、あのババァ」
「おい。だから、神に対してそんな台詞を吐いていいと思ってるのか、お前は」
アークはしつこく突っかかってくる。
「うるさいなぁ。じゃあ、あんたも見てみなさいよ」
「――なんだぁ、こりゃあ」アークは地図を受け取ると、眉をひそめた。「誰が描いたんだこりゃあ。幼稚園児か?」
「そりゃあ、あのオバさんなんじゃないの?」
アークは舌打ち交じりに言った。
「うすうす思ってたけど、あのババァ、ちょっと頭おかしいんじゃないのか」
「あんたも言ってんじゃないのよ」
「そ、それはそうと」アークは慌てて話を変えた。「お前、そんな格好で旅するつもりなのか?」
「なになに、服買ってくれんの?」
思わず身を乗り出す。
「そうじゃなくて、制服が有るんじゃないのか?」
アークは引き気味に言った。
「貰ってないのよねぇ、それ。別に要らないけど」
「武器は? 護身用に必要だろう」
「あんたが守ってくれるんでしょ。そのためのお供の天使じゃないの」
「天は自らを助くものを助けるって言うだろうが。……仕方が無いな」
アークは懐をごそごそとまさぐると、玩具のように小さなナイフを取り出した。どこかにポケットでも付いているのだろうか。
「――それでどうしろと?」
アークの丸っこい手の上でちらちらと火花が散ると、玩具のナイフがみるみる大きくなり、一振りの短刀へと姿を変えた。それは、あの魔物、トゥルヌスを撃退した時に使ったものだった。
「一応、それを持っておけ」
「くれんの?」
「やらねえよ! 友達からもらった大事な物なんだから、失くすなよ」
「友達って、例のメーフィスって天使?」
そういえば、アークは行方不明の友人を探していると言っていた。
「ああ」
アークは素っ気無く言うと、また地図に目を落とした。。それ以上のことを言う気はないようだ。
ベルは受け取った短刀を腰帯に差しておいた。
「よし、じゃあ行くか」地図を丸めながら、「とりあえず、北へ向かえばいいんだろう、たぶん」
「えっ、もう行くの? あたし昨日、一睡もしてないんだけど」
「一日くらい寝なくてもなんとかなるだろ。俺は急いでいるんだ、行くぞ」
言うが早いか、アークはさっさと飛び立ってしまった。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
慌てて、ベルもソージキに乗って後を追った。
半島北部辺り。
都市部から大分離れて、空にはもう、飛び交う天使たちの影もない。天使はいまだ人数が少なく、都市部やその周辺にしかいないのだ。耕作地帯で人口もまばらであるこの周辺に、余計な人員を割く余裕はないのだろう。
眼下には広大な稲田が広がっている。このあたりで稲作は珍しい。
稲は今、ちょうど収穫期だ。収穫した稲を天日干しにして乾燥させる、稲杭掛けがあちこちに立てられているのが見えた。しかし収穫はまだ始まったばかりのようで、刈り入れを待つ黄金色の実りが多数、頭を垂れて佇んでいる。そこへ秋風が吹くたび、黄金色の津波が走ってゆく。その光景の前には、ただただ感謝という言葉しか思い至らない。秋の実りは、命を育てる恵みなのだ。
あくびを一つ。
前方を飛ぶアークの耳が大きくはためき、ベルの視界を遮る。ものすごく邪魔だ。ベルはなんだかまたイライラしてきた。
そのアークはというと、例の地図を眺めながら、眉間に皺よせぶつぶつとうなっている。
「――なんだよこれ、さっぱり地図がわかんねえな」
「ああ?」
「さっぱりわかんねぇんだって、地図が。現在地すら分からん」
アークはしきりに首を傾げている。
「いいわよ、もう。適当に北に行けばいいんでしょ」
眠くてイライラしていたベルは、適当に受け流した。
ふと、視界の端に黒い影が映った。
目を向けてみると、それは何かしらの建造物のようだった。四角い大きな塔が幾つかと、その周囲に無数の建物が針山のようにひしめいている。このあたりにあんな大きな街があるなんて、聞いたこともなかった。
止まってアークにたずねると、アークは相変わらず地図とにらめっこしつつ答えた。
「あれはたぶん陽極の一つ、第五陽極だな」
「陽極?」