私を殺しに来る男
私を殺しに来る男
普段と変わらない日曜日の午前中に起きた悪夢の出来事だった。呼び鈴が鳴り、私は玄関へと向かい、
「はーい」
と言いながらドアを開けた。都会であればチェーンロックをしているのだろうし、それ以前に、ドアスコープで訪問者が誰であるのかを確認するまではドアを開けないことだと思う。そういった防犯意識が私にもあったのならと思ってみても、それは後の祭りだ。私の住んでいるような地方都市では、まだそこまでの防犯意識がある人は少ないように思う。来客があれば、「はいはい」と先ずはドアを開けて、顔を見せて出迎える。それは私にとっては全く普通のことだったのだ。
しかしながら、ドアを開いたそこに立っていたのは、一度も見たことがない顔の男で、しかもその男は黒いジャンパーに黒いズボンという黒ずくめの格好をしていた。知り合いなどではないことはもちろん、その外見から宅急便や郵便ではないことも明らかだった。そしてその黒ずくめの格好と、男が漂わせるどす黒い空気は、男が訪問販売などでもないことを示していた。その男には、物を売る人間特有の、人を安心させるような笑顔は全く無く、ただただどこまでも無表情だった。そして、私はその男の無表情を恐れた。笑顔の苦手な訪問販売員であって欲しいと願った。それならば、面倒ではあるものの、「うちは結構ですから」と断ればすむ話だ。しかしあっけなく私の期待は裏切られた。男は落ち着いた動きでポケットから刃物を取り出した。その刃の強靭な太さと長さから、それが人を殺害するのに十分な能力を持つことは、一見して分かった。こうして私の悪夢は幕を開けた。
私は今年で44歳になった、ごく普通のサラリーマンだ。年下の妻と、高校一年生になる息子と、中学二年生の娘の4人家族である。5年前にようやくマンションを購入し、そこに家族4人で住んでいる。毎月のローンを払い、食費に光熱費にと節約をしつつも子供の教育にはできるだけお金をかけ、年に1~2回は旅行に行くという、ごく普通の家庭だと思う。息子も娘も親に反抗してもおかしくない年頃ではあったが、特別大きく衝突するというようなこともなく、まあ仲のよい家族だった。
日曜日、夜更かしをしていたであろう息子の隆志は遅めの朝食を食べ終えると「テストが近いから」と言ってすぐに自室に向かった。妻の良美は、隆志の食べ終えた食器を洗うためにキッチンへ。私と娘の裕子は、息子よりもいくぶん早く朝食を済ませていたため、リビングでテレビを見ていた。
「日曜日って、なんか面白い番組やってないね」
娘が言う。「そうか」と私は返事をしながらも、一週間のニュースを総ざらいするようなテレビ番組を見ながら、チャラチャラとしたタレントやお笑い芸人が出てくるような番組などより、こういった番組の方がよっぽどいいと思っていた。ともかくも、ごくごく平凡な家庭の、ごくごく平凡な日曜の午前だったのだ。呼び鈴が鳴るまでは。そして、呼び鈴が鳴った。
呼び鈴を鳴らして現れたその黒ずくめの男は、玄関で、私の目の前で、ゆっくりと刃物をポケットから取り出した。別段急ぐでもなく、ゆっくりとした動作で私に刃物を向けた。私は体が硬直し、動けなくなった。飛びかかるなり逃げるなりしなければならない状況だという事は分かるが、体が動かない。男は刃物をゆらゆらと動かしながら無表情に言った。
「殺す」
と。その言葉がまるで私の硬直を解く魔法だったかのように、私は男の声を聞くなりすぐに後ろ、すなわちリビングへと駆け出した。とにかく、逃げなくては。それにしても、あの男は一体誰だ、なんなんだ。全く見覚えが無い。なぜ私を殺そうとするのか。そりゃ、私だって人間だ、私を嫌う人の一人や二人いるだろうが、それにしたって、殺したい程恨まれるような覚えもない。それとも私の知らない所で私を殺したい程の恨みを募らせた人間がいるのだろうか。それがあの男なのだろうか。体中から冷や汗がふき出し、心臓は音が聞こえる程に激しく鼓動を打っている。まさに悪夢だった。凶悪な殺人事件のニュースを見るにつけても、それが自分の身にふりかかるなどということは考えてもみなかった。それなのに。なぜ自分なんだ、なぜ自分がこんな目に。私は玄関からリビングに通じるドアを勢いよく開けた。バン!と激しく音を立てながらドアが開く。リビングでは何も知らない娘が一人でテレビを見ていた。妻はキッチン、息子は自室にいるのだろう。そうだ、娘は、そして家族だけは何に変えても守らなくてはならない。私が殺されたとしても、家族だけは絶対に守る。
リビングのドアを勢いよく開けると私は叫んだ。
「裕子、逃げろ、ベランダから逃げるんだ!!」
娘は驚いた顔で私を見たが、その場を動こうとはしなかった。状況を全く把握できていないのだ、いきなり逃げろと言われても動けなくて当然だろうが、私は猛烈にいらだった。娘の元に駆け寄ると無理やりに手をつかみ、
「さあ早く逃げろ!」
と、叫んだ。それでも
「ちょっと何よパパ」
と、いっこうに逃げようとはしない。そしてついにリビングに男が侵入してきたのだった。鋭い刃物を胸の前でゆらゆらと揺らしながら、やはり急ぐでもなく、ゆっくりと私に向かって近づいてくる。その表情は相変わらず無表情だったが、獲物を追い詰めるのを楽しんでいるように見えた。さすがにあの男を見れば、今がどれ程の緊急事態なのか、嫌でも分かるだろう。私は娘をかばうように、娘と男の間に立ちはだかりながら叫んだ。
「さあ、早く逃げろ!!」
すると娘は言った。
「もうパパ、お客さんが来てるならちゃんとそう言ってよね」
何も変わったことなど無いかのように娘は言うと、私の横をすり抜け、男の前に立つと言った。
「すいません、今、ママを呼んで来ますから」
娘はぺこりと男に向かって頭を下げ、男の横をすり抜けて、妻を呼ぶためにキッチンへと向かった。今の私の顔を鏡で見れば、ぽかんと口を開けて、とても間抜けな顔をしているのだろうと思う。状況がよく飲み込めないままに、私は男に尋ねた。
「ええと、娘のお知り合いの方ですか?」
刃物を持って迫って来る男に対する質問としては、随分と間の抜けた質問だと我ながら思う。男は私の質問には何も答えず、相変わらずの無表情のまま私に近づいてきて、ついに私に向かって刃物を突いてきたのだった。私はとっさに手を上げて防御したが、恐ろしいことにその刃物は私の右手の手のひらを手の甲へと貫通したのだった。激痛の中で思った、そう、こんな得体の知れない男が娘の知り合いであるはずがない。娘はこの男が私の知り合いか何かだと勘違いしたのだろう。私があれだけ大声で危機を訴えたのに、刃物を持った男が目の前に現れてさえ、娘は状況を全く理解していないのだった。我が娘ながらなんと平和ボケしていることだろうか。
「うおおおおおお!」
普段と変わらない日曜日の午前中に起きた悪夢の出来事だった。呼び鈴が鳴り、私は玄関へと向かい、
「はーい」
と言いながらドアを開けた。都会であればチェーンロックをしているのだろうし、それ以前に、ドアスコープで訪問者が誰であるのかを確認するまではドアを開けないことだと思う。そういった防犯意識が私にもあったのならと思ってみても、それは後の祭りだ。私の住んでいるような地方都市では、まだそこまでの防犯意識がある人は少ないように思う。来客があれば、「はいはい」と先ずはドアを開けて、顔を見せて出迎える。それは私にとっては全く普通のことだったのだ。
しかしながら、ドアを開いたそこに立っていたのは、一度も見たことがない顔の男で、しかもその男は黒いジャンパーに黒いズボンという黒ずくめの格好をしていた。知り合いなどではないことはもちろん、その外見から宅急便や郵便ではないことも明らかだった。そしてその黒ずくめの格好と、男が漂わせるどす黒い空気は、男が訪問販売などでもないことを示していた。その男には、物を売る人間特有の、人を安心させるような笑顔は全く無く、ただただどこまでも無表情だった。そして、私はその男の無表情を恐れた。笑顔の苦手な訪問販売員であって欲しいと願った。それならば、面倒ではあるものの、「うちは結構ですから」と断ればすむ話だ。しかしあっけなく私の期待は裏切られた。男は落ち着いた動きでポケットから刃物を取り出した。その刃の強靭な太さと長さから、それが人を殺害するのに十分な能力を持つことは、一見して分かった。こうして私の悪夢は幕を開けた。
私は今年で44歳になった、ごく普通のサラリーマンだ。年下の妻と、高校一年生になる息子と、中学二年生の娘の4人家族である。5年前にようやくマンションを購入し、そこに家族4人で住んでいる。毎月のローンを払い、食費に光熱費にと節約をしつつも子供の教育にはできるだけお金をかけ、年に1~2回は旅行に行くという、ごく普通の家庭だと思う。息子も娘も親に反抗してもおかしくない年頃ではあったが、特別大きく衝突するというようなこともなく、まあ仲のよい家族だった。
日曜日、夜更かしをしていたであろう息子の隆志は遅めの朝食を食べ終えると「テストが近いから」と言ってすぐに自室に向かった。妻の良美は、隆志の食べ終えた食器を洗うためにキッチンへ。私と娘の裕子は、息子よりもいくぶん早く朝食を済ませていたため、リビングでテレビを見ていた。
「日曜日って、なんか面白い番組やってないね」
娘が言う。「そうか」と私は返事をしながらも、一週間のニュースを総ざらいするようなテレビ番組を見ながら、チャラチャラとしたタレントやお笑い芸人が出てくるような番組などより、こういった番組の方がよっぽどいいと思っていた。ともかくも、ごくごく平凡な家庭の、ごくごく平凡な日曜の午前だったのだ。呼び鈴が鳴るまでは。そして、呼び鈴が鳴った。
呼び鈴を鳴らして現れたその黒ずくめの男は、玄関で、私の目の前で、ゆっくりと刃物をポケットから取り出した。別段急ぐでもなく、ゆっくりとした動作で私に刃物を向けた。私は体が硬直し、動けなくなった。飛びかかるなり逃げるなりしなければならない状況だという事は分かるが、体が動かない。男は刃物をゆらゆらと動かしながら無表情に言った。
「殺す」
と。その言葉がまるで私の硬直を解く魔法だったかのように、私は男の声を聞くなりすぐに後ろ、すなわちリビングへと駆け出した。とにかく、逃げなくては。それにしても、あの男は一体誰だ、なんなんだ。全く見覚えが無い。なぜ私を殺そうとするのか。そりゃ、私だって人間だ、私を嫌う人の一人や二人いるだろうが、それにしたって、殺したい程恨まれるような覚えもない。それとも私の知らない所で私を殺したい程の恨みを募らせた人間がいるのだろうか。それがあの男なのだろうか。体中から冷や汗がふき出し、心臓は音が聞こえる程に激しく鼓動を打っている。まさに悪夢だった。凶悪な殺人事件のニュースを見るにつけても、それが自分の身にふりかかるなどということは考えてもみなかった。それなのに。なぜ自分なんだ、なぜ自分がこんな目に。私は玄関からリビングに通じるドアを勢いよく開けた。バン!と激しく音を立てながらドアが開く。リビングでは何も知らない娘が一人でテレビを見ていた。妻はキッチン、息子は自室にいるのだろう。そうだ、娘は、そして家族だけは何に変えても守らなくてはならない。私が殺されたとしても、家族だけは絶対に守る。
リビングのドアを勢いよく開けると私は叫んだ。
「裕子、逃げろ、ベランダから逃げるんだ!!」
娘は驚いた顔で私を見たが、その場を動こうとはしなかった。状況を全く把握できていないのだ、いきなり逃げろと言われても動けなくて当然だろうが、私は猛烈にいらだった。娘の元に駆け寄ると無理やりに手をつかみ、
「さあ早く逃げろ!」
と、叫んだ。それでも
「ちょっと何よパパ」
と、いっこうに逃げようとはしない。そしてついにリビングに男が侵入してきたのだった。鋭い刃物を胸の前でゆらゆらと揺らしながら、やはり急ぐでもなく、ゆっくりと私に向かって近づいてくる。その表情は相変わらず無表情だったが、獲物を追い詰めるのを楽しんでいるように見えた。さすがにあの男を見れば、今がどれ程の緊急事態なのか、嫌でも分かるだろう。私は娘をかばうように、娘と男の間に立ちはだかりながら叫んだ。
「さあ、早く逃げろ!!」
すると娘は言った。
「もうパパ、お客さんが来てるならちゃんとそう言ってよね」
何も変わったことなど無いかのように娘は言うと、私の横をすり抜け、男の前に立つと言った。
「すいません、今、ママを呼んで来ますから」
娘はぺこりと男に向かって頭を下げ、男の横をすり抜けて、妻を呼ぶためにキッチンへと向かった。今の私の顔を鏡で見れば、ぽかんと口を開けて、とても間抜けな顔をしているのだろうと思う。状況がよく飲み込めないままに、私は男に尋ねた。
「ええと、娘のお知り合いの方ですか?」
刃物を持って迫って来る男に対する質問としては、随分と間の抜けた質問だと我ながら思う。男は私の質問には何も答えず、相変わらずの無表情のまま私に近づいてきて、ついに私に向かって刃物を突いてきたのだった。私はとっさに手を上げて防御したが、恐ろしいことにその刃物は私の右手の手のひらを手の甲へと貫通したのだった。激痛の中で思った、そう、こんな得体の知れない男が娘の知り合いであるはずがない。娘はこの男が私の知り合いか何かだと勘違いしたのだろう。私があれだけ大声で危機を訴えたのに、刃物を持った男が目の前に現れてさえ、娘は状況を全く理解していないのだった。我が娘ながらなんと平和ボケしていることだろうか。
「うおおおおおお!」