永遠の音楽
(十三)
私はベッドの上に風呂敷の包みを置き、開いた。中身がヴァイオリンだとわかると、尚さんは目を見開く。その目を無視して、彼の身体の横にヴァイオリンを置いた。
「ヴァイオリン?」
「うん。質流れ品だけどね、見つけたんだ。ケースは間に合わなかった。でも弓は新品だよ」
古ぼけたヴァイオリンと、対を成すには不釣合いなほど真新しい弓を手にとって翳して見せる。
尚さんは目を細めた。一瞬、その瞳に生気が戻ったのを私は見逃さなかった。
「しばらくはこれで我慢して。そのうち、本体も新品を手に入れるから」
「鼎、俺はもう」
尚さんの表情が曇った。私は首を振った。
「駄目だ。尚さんは弾かなけりゃ」
鞄の中から手紙の束を取り出し、ヴァイオリンの傍に置いた。
「容子さんと信乃さんからの手紙だ。僕が持っている二人が生きていた証だよ。読んでいいから、ううん、読んでくれ。二人がどれだけ生きたかったのかわかるよ。どれだけ音楽を続けたかったかわかるよ。こんなに音楽が好きだったのに、二人はもうそれが出来なくなってしまったんだ」
私は容子さんの手紙を一通、封筒から抜き出し広げて、尚さんの胸の上に置いた。
岡山に帰って一人で慰問活動を始めた頃のものだった。慣れないアコーディオンで決して上手いとは言えない伴奏を奏でながらで苦労しているが、そんな不完全な演奏でも聴く人は皆喜んでくれるとある。
尚さんは手紙に手を伸ばさない。あたりまえだ。私だっていまだに二人の手紙を読み返せないでいるのだから。
「容子さんに言われたよ。『生かされたことには意味がある』って。死んでしまった人達の分も、精一杯生きるんだって。尚さんは生きているんだ。これからだって生きて行ける。生きて音楽を続けるかぎり、僕達の中で信乃さんも容子さんも生き続ける。尚さんに音楽を与えてくれたのはご両親だろう? ヴァイオリンが弾けるってことは、お父さんとお母さんの思い出でもあるんだよ。尚さんの存在そのものが、みんなが生きていた思い出なんだ」
「鼎」
「今すぐ立ち直れとは言わない。僕だって、五年経った今も辛いから。尚さんはやっとの思いで帰ってきばかりなんだから、ゆっくりでいい。ゆっくりでいいけど、でも生きる気力を失くさないでくれ。生きたいと願って生きられなかった人達のために、命を粗末にしないでくれ、尚さん。僕じゃ力不足なのはわかってるけど、二人が生きていたらやりたかった音楽を、僕達でやろうよ。僕はいつだって感じられる。あの二人のピアノや声を。このヴァイオリンを見つけた時、弦に触ってみたんだ。ちゃんと僕の耳に、尚さんのヴァイオリンの音が聴こえたよ。尚さんは、あの二人の音を忘れてしまった? 忘れてしまってもいいのか?」
私はヴァイオリンを風呂敷に包みなおし、ベッドの傍にある私物棚の上に、そして二人からの手紙の束は枕元に置いた。
これが私の「精一杯」だった。気力につながるかどうかわからない。家族と友人を失った穴を埋めるには、私ではまだまだ頼りないだろう。しかし私の言葉だけではなく、あの二人の言葉が尚さんの心を動かしてくれるはずだと思った。
尚さんが生きることで容子さんも信乃さんも生き続ける。人は忘れられないかぎり、肉体は死んでも存在は死なない。思い出の中で生き続ける。そう信じている。
尚さんは棚に置かれたヴァイオリンを見つめていた。手を伸ばせば触れられる距離だ。伸ばしてくれることを願って病室を後にした。
翌週の土曜日は見舞えなかった。尚さんはこじらせた風邪から肺炎にかかり咳がひどく、移るといけないから来ない方が良いと、真之君が療養所の帰りに寄って伝えてくれた。
「肺炎」
荒療治が過ぎて逆効果になってしまったのだろうか。二人の手紙を読んで、更に落ち込ませてしまったのではないか――気が気でない私に、真之君は慌てて「軽い肺炎です」と付け加えた。
「それと尚兄さんから伝言を頼まれました。『避けているわけじゃないから』って。鼎さんがきっと気にすると思うからって言っていましたよ。喧嘩でもしたんですか?」
私は真之君を凝視した。
「尚さんが、そう言ったのかい?」
先日までの尚さんは、他人のことを思いやる余裕などなかった。自分のことにも投げやりだった。殻に閉じこもり、興味も関心も失っていたのに。
彼が私のことを気にかけてくれている?
「本人は思いのほか元気なんですよ。これは本当です。多分、来週には見舞いも大丈夫になると思いますから」
そう言って、真之君は帰って言った。
尚さんが他人を気にかけるようになったことは、喜ばしいことだった。良い傾向だと思いつつも、病状については私を安心させるためかも知れない。尚さんの体力は落ちていた。軽いとは言え肺炎には違いなく、体力のある人間が罹るのとは状況が違うだろう。このまま尚さんが逝ってしまうようなことになったらと、どうしても悪い方向に考えが及ぶ。次の土曜日までに何らかの連絡があったりしたら。
しかしその後、杞憂した連絡はなく、見舞いを遠慮してくれとも言って来なかったので、いつも通り、次の土曜日に療養所に向かった。
尚さんはベッドの上に座っていた。髪も切って小ざっぱりとしている。そのせいか二週間前とは印象が違って見えた。
私の足は我知らず早くなっていた。
「具合はどうなの? 肺炎だって聞いたけど」
「軽かったから、もう平気だ」
尚さんはにっこりと笑んだ。私は目頭が熱くなるのを感じていた。
先日よりも更に痩せて面変わりは否めないが、その笑顔は私が知っている尚さんのものだ。帰国してから見ることのなかった、かつての彼の笑顔だった。
ベッドにはヴァイオリンが乗っていた。
「ヴァイオリン、弾いてみた?」
尋ねると、尚さんはヴァイオリンの表板の部分に触れ、撫でる。
「ヴァイオリンも弓も重くて、音にならない。体力をつけないと」
「そうだよ。嫌いな納豆も残さず食べて、早く元の身体に戻らなけりゃ。また一緒に弾けるんだね」
私は笑った。
笑ったけれど、涙が溢れて止まらない。さぞかしおかしな顔をしているだろうが、そんなことは気にならなかった。笑い声は嗚咽に変わり、大の大人が人目も憚らずしゃくり上げる。抑えられない。
ただただ嬉しかった。腕で涙を拭いながらも、私は笑っていた。嬉しくて嬉しくて言葉が出ないくらいだった。言葉は涙となって、嬉しさを表現しているのだ。
止め処なく流れ落ちる涙を拭うことを私は諦めた。揺れる視界に尚さんの手が伸びてくる。脇に下ろした私の右手を掴んだ。
骨ばった手はしかし、温かい。
「頑張るよ。時間かかるかも知れないけど、また『タイス』の伴奏してくれ」
今、出せる力全てで、彼は私の手首を握る。
「僕もピアノを練習しないと、すっかりなまっているから」
私は左手を彼の手の上に重ねた。
(了)