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神さま、あと三日だけ時間をください。~Last Scene~

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♭切ない別れ♭

 マンションに辿り着いたのは、午後五時近かった。おかしなもので、習性というか習慣は怖ろしいものである。琢郎とあんなことがあっても、美海はN駅の近くのデパ地下で惣菜を幾つか買い求めた。
 時間的にはさほど遅いとはいえないけれど、心身ともに色々ありすぎて、身体がついてゆけなくなりつつある。が、琢郎のことを思えば、夕食を拵えなければならない。
 琢郎は結婚前から、一人では何もできない男だった。その点はシュンと対照的である。琢郎も親許を久しく離れていたから、その点はシュンと同じはずなのに、自炊というものを全くしなかった。なので、美海と付き合うようになってからは、美海がしょっちゅう下宿を訪ねて洗濯や掃除、料理などをしたものだ。
 そのせいで、琢郎は同じ下宿の住人たちからは学生結婚をしていると勘違いされていたという笑えない話まである。もっとも、琢郎とシュンでは十九歳の歳の差があるのだ。
 殆ど父と息子のように年齢差がある二人を比べてみても、意味はないのかもしれない。今時の若い子たちが肉食系女子、草食系男子と呼ばれるように、今の時代は男女が逆転しているのだろう。シュンはまさに今時の若者だ。炊事は苦手と言いながら、あり合わせの材料で器用に雑炊を作ったところを見ると、家事はお手のものに違いない。
 家の中も男の一人暮らしにしては実に整頓され、掃除も行き届いていた。几帳面な彼の性格をよく表している。琢郎の下宿はいつも足の踏み場がないくらい散らかっていた。美海が行く度にそれなりに片付けて帰るのに、三日後訪ねてみたら、また、以前の惨状に戻っている。
 それは今でも変わらず、美海がいなければ、本当に下着やワイシャツのありかすら判らないような男なのだ。
 いつしか自分でも知らない中に、琢郎とシュンを比べている。そう気づき、美海は愕然とした。
 気分を取り直し、マンションのエントランスを抜けエレベーターに乗る。九階を押すと、エレベーターがゆるやかに上昇を始めた。
 九階で降りて、敷き詰められた絨毯の上を歩く。このマンションは超がつくほどではないが、ここいらでは高級マンションと呼ばれているのだ。
 暗証番号を押しロック解除して、ドアを開けた。
 短い廊下を進んでリビングに脚を踏み入れるやいなや、美海は絶句した。ビール缶や焼酎、ウイスキーの小瓶が至るところに散乱している。申し訳程度につまみの小袋が転がっているが、開けた形跡はあるものの、中身は殆ど減っていない。
 琢郎はそのゴミの山の中に転がっていた。
 大の字になって、ぼんやりと天井を仰いでいる。
「琢郎さん?」
 美海が恐る恐る声をかけてみると、琢郎は睫をかすかに震わせた。
「―美海が帰ってきたのか? それとも、飲み過ぎて気が変になって、いよいよ見もしない幻を見るようになっちまったのか?」
 呂律(ろれつ)が怪しいし、眼は座っている。どうせ、ろくに食べもせずにアルコールを浴びるように飲んでいたに違いない。
「私、美海よ。帰ってきたわ」
 琢郎が緩慢な仕草で顔を動かした。
「美海」
 いきなりガバと身を起こし、美海に抱きついてきたので、流石に愕いた。また前夜と同じことなのかと警戒してみたが、琢郎は美海を抱きしめたまま、その髪に顔を埋めているだけだ。
「俺は美海が好きだ。お前なしじゃ、生きていけない。美海、俺を棄てないでくれ」
 愛してるんだ、棄てないでくれ。
 琢郎はうわ言のように幾度も繰り返した。亭主関白をもって任じる普段の琢郎なら絶対に口にしないような科白である。
「会社は休んだの?」
 美海が子どもにするように優しく問うと、琢郎はうんうんとまた子どものように頷く。
「うん、お前がいなくなっちまったっていうのに、会社なんて行ってられるか。ずっと、ここで待ってたんだ。どうして、もっと早くに帰ってこなかったんだ? 俺は待ちくたびれて、お前がもう帰ってこないのかと」
 琢郎の声が戦慄いた。かすかな嗚咽が洩れ、夫が泣いているのだと判った。
「美海、お願いだ。どこにも行くな」
「判った。私はどこにも行かない、だから、安心して、あなた」
 美海が言い聞かせるように囁く。
 琢郎の蒼白い顔にわずかに赤みが差し、あからさまな安堵の表情が浮かんだ。
「良かった、俺は美海がいないと駄目なんだ。お前がいなきゃ、駄目になる」
 琢郎はまた同じ科白を繰り返した。
 しばらく身体を震わせていたかと思うと、やがて、彼はコテンと床に転がり鼾をかいて眠ってしまった。
 美海はしばらくの間、床に座り込んで琢郎の寝顔を見つめていた。無防備な子どものような表情。
 この瞬間、美海の心は決まった。
 琢郎への想いも残っている。
 だが、シュンのことは夫以上に好きだし、愛していた。何より、心が求めてやまなかった。
 でも、今ここで琢郎に別離を切り出したりすれば、彼は間違いなく自暴自棄になるだろう。
 美海の脳裏にシュンから聞いた切別伝説の話が甦る。美しい男神たちに求愛され、どちらも選べず非業の死を遂げた美しき女神。
 この(琢)男(郎)の側から離れてはいけないのだと思った。思い上がりかもしれないが、もし自分が去れば、琢郎は駄目になるのではないか、そんな予感がした。
 今では昔のようにひたむきに琢郎を愛した頃のような情熱はない。しかし、代わりに彼と営んできた十一年という歳月は、琢郎に対して身内に近い感情を抱かせるようになっていた。川の急な流れが気の遠くなるような歳月を経て凪いだ大海へと注ぎ込むように、美海の夫への愛もまたいつしか穏やかな想いに変わったのだろう。
 夫の安らいだ寝顔をひとしきり眺め、美海は散らかり放題に散らかったリビングを片付けた。一時間後には、とりあえず見られる状態にまではなった。本当は掃除機をかけたかったのだけれど、熟睡している琢郎を起こすのも忍びなく諦めた。
 シュンほどではないが、大柄ではある琢郎を苦労してリビングのソファに寝かせ、冷房を緩くかけてタオルケットをかけた。これで風邪を引くことはないだろう。  
 自室に戻れたのは、夜も七時を回っていた。
 何か口にしなければ身体が弱ってしまうのは判っていても、食欲は一向に出ない。無理に食べる必要もないと自分に言い聞かせ、琢郎が目覚めたときに一緒に買ってきた惣菜を食べようと思い直す。 
 自分の部屋へ入ると、デスクに向かい携帯を開いた。やはり、新着メールが二通来ている。

七月○日午後四時五分
 幾ら何でも家に着いてる頃だよね。ミュウの様子が普通じゃなかったから、心配してるんだ。着いたら、メールして。  シュン

   午後五時二十一分
 最初にミュウから電話があったときは愕いたけど、今日は思いがけず君に逢えて嬉しかった。              シュン
        ↓
   午後七時十七分
 いきなり押しかけてしまって、本当に申し訳なく思ってます。心配もかけてしまったようで、ごめんなさい。無事に家に帰り着いたよ。今夜はこれでおやすみなさい。 ミュウ

 そこまで打ち込んで、美海は携帯の画面をじいっと見つめた。少し考えてから、続きを入力し始める。

 追伸
  I町には行くつもり。よろしくね。