神さま、あと三日だけ時間をください。
駅から眺めた海はコバルトブルーに見えたが、今、海岸に佇んで臨む海はセルリアンブルーに色を変えている。白い砂を絶え間なく寄せる波が洗い、はるか遠くの水平線の向こうにはソフトクリームのような入道雲が大きく見えていた。
見上げる空は眩しいほど蒼く、海の色に負けないほどの鮮やかさである。砂浜にはレモンイエローの向日葵が何本も群れ咲いていた。
美海は白いサンダルを脱ぎ、すっかり熱くなった砂の上をゆっくりと歩く。
「熱い。まるで自分がエビになって、オーブンの上で温められているみたい」
美海が真剣な顔で言うのに、シュンはプッと吹き出した。
「ミュウって面白いことを言うんだね」
「そんなに変なこと言った?」
シュンがあまりに笑い転げるので、美海は少し拗ねたように言った。
「変じゃないけど、普通の人はなかなか言わないよね、そんな科白」
「どうせ私は変人ですよ」
美海は頬を膨らませて、一人でどんどん先に歩いていった。
「君の本当の名前は何ていうの?」
ふいに声が追いかけてきて、美海はハッと立ち止まった。
とうとう、その瞬間(とき)が来てしまった。だが、いずれはこうなると覚悟していたはずだ。
美海は振り向いた。
「美海。美しい海と書くの」
束の間の静寂が二人の間を流れ、視線が交わった。
「美しい海、か。今、俺たちが見てる海のようだね。よく似合ってるよ、良い名前だ」
美海は何も言わずに、海を見つめた。そろそろ真実を話さなければならない。自分は本当はあなたより十七歳も年上のオバさんで、とうに結婚して夫もいること。あなたには全然、ふさわしくないから、これからはメールも逢うのも止めましょう―、と。
「他には? 何か訊きたいことはないの?」
わざと軽い口調で訊ねる。
今度は、シュンが押し黙った。横顔が少し強ばっているように見える。今日、彼が初めて見せる深刻な表情だった。
「シュンさんは私が幾つくらいに見える?」
彼の方からは何も言わないので、美海が切り出した。
やや経って、返事が返ってくる。
「三十くらいかな。もしかしたら、もう少し若い?」
その応えには美海も思わず笑ってしまいそうになった。だが、相手が真面目に話しているときに、笑うほど愚かではない。
「それ、本心で言ってるの?」
まさか、ここまできてお世辞でもあるまいと思いながら問うと、シュンは少し怒ったような表情になった。
「こんなときにふざけると思うのか?」
「ごめんなさい。でも、あなたが私をからかってるんじゃないのかと思ったものだから。私、あなたが思っているほど、若くはないのよ」
シュンは一瞬、ポカンとし、それから笑い出した。
「何だ、そんなことか。ミュウがあんまり思いつめた顔で言うから、もう今度からは逢わないなんて言い出すんじゃないかと思って、焦った」
シュンは笑いながら言った。
「じゃあ、三十一か二くらい? 俺にはとてもそんなには見えないけど」
もう、何も言えなくなってしまった。美海は溜息をついて、また視線を海に投げた。
静かな時間が流れてゆく。
白いカモメが翼をひろげて天空を舞い、やがて入道雲に吸い込まれて見えなくなった。
「じゃあ、俺からも質問。さっき、子牛を構っていたミュウを見ていた時、俺が何を考えていたか判る?」
美海は首を傾げた。あの時、シュンはとても嬉しそうに子牛と美海を代わる代わる見つめていた。
「何だかとても嬉しそうだったけど」
「何で、嬉しかったかは想像がつくかな」
美海は怪訝な顔で首を振った。
「俺、ちょっと妄想してたんだ」
「妄想?」
「うん。ミュウがもし、もしもだよ、俺の奥さんになってくれて、子どもが生まれたら、あんな風に生まれた赤ん坊を可愛がるのかなと思った。あらぬ妄想してたら、自然に頬が緩んじゃって」
「どうして、私とシュンさんが結婚するということになるの?」
「ごめん、気を悪くした?」
「私はシュンさんより、うんと年上だもの。結婚なんて、あり得ない」
「そんなことないよ」
シュンの声が少し高くなった。
「今時、歳の差がある夫婦なんて珍しくないじゃないか。奥さんの方が十くらい年上でも、俺、全然気にしない」
「私たち、今日初めて逢ったばかりなのに」
美海がシュンと結婚できない本当の理由からはどうも話の論点がずれているような気がするけれど、こちらも美海には確かに理解できないことだ。
何故、初めて逢った日―いや、まだ逢いもしない中から、シュンが〝結婚〟という言葉を持ち出し、美海を彼女扱いしようとしたのか。これは美海の実年齢とかは関係ない話だ。
「ミュウじゃなくても、こんな強引な男は嫌われるよね」
シュンの言葉がどこか淋しげに聞こえる。美海は首を振った。
「そんなことはないわ。でもね、シュンさん。私はどうしても理解できないの。あなたのように若くてイケメンなら、付き合いたいって女の子はたくさんいるでしょ。なのに、どうしてわざわざ出会い系サイトの掲示板まで使って、しかもそこで出逢った年上の女を相手にするのか。今日、初めて逢ったばかりの私に結婚の話なんて持ち出すのか」
シュンは少しうつむき、考え込むそぶりを見せた。潮の香りを含んだ海風がシュンの少し長めの前髪を揺らして通り過ぎていった。
「何て言ったら良いんだろう。ミュウと俺が初めてチャットで出逢ったのは一ヶ月前だよね。あの時、俺、マジで落ち込んでたんだ。誤解のないように言っておくけど、白状すると、出会い系サイトなんて初めてだったんだ。あのときは無性に人恋しくて出会い系でも何でも良いから、とにかく誰かと話したかった。それで、思い切ってコメントアップしたら、君から返事が来たんだよ」
作品名:神さま、あと三日だけ時間をください。 作家名:東 めぐみ