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神さま、あと三日だけ時間をください。

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 美海は長い物想いから自分を解き放ち、もうこれで幾度めになるか判らない溜息をついた。小さくかぶりを振り、ドレッサーのいちばん上の引き出しを開ける。手のひらに乗るほどの小瓶の蓋を開けると、少しだけ掌(たなごころ)に垂らした。
 〝男ごころを甘くくすぐる魅惑の香り、禁断の蜜の味〟。この香水は通販で買ったもので、カタログの商品説明にはそう記されていた。よくあるセックスのためのグッズがずらりと並んでいるページだ。
 これまで美海はそんなページなど開いてみたこともなかったのだけれど、流石にこのままではまずいと思い始め、思い切って購入してみたのだった。
 小瓶は悩ましげな女の肢体を象っており、いかにもその類のものらしい卑猥さと安っぽさを漂わせている。こんなものにまで頼らなければ夫の気を引けないのかと思えば、女として情けなくもあり、やり切れなくもあった。
 子どもないままに、自分はこうして空しく時を重ね、やがては老いて死ぬのを待つばかりなのだ。そう思うと、居ても立ってもおられず、叫び出したいような衝動に駆られることがある。
 それなら、いっそのこと外に出て男友達を作るとかすれば良いのかもしれないが、会社を辞めてはや十一年、既に社会から隔絶された主婦となって久しい自分に今更、行く当てもそんなチャンスもあるとは思えない。
 美海は想いを振り切るように勢いよく首を振り、手のひらに垂らした香水をうなじと胸の辺りにつけた。いつもは通気性の良い木綿のパジャマしか着ないのに、今夜のためにシルクのネグリジェを奮発して買った。以前、勤務していたデパートの高級ランジェリーショップで買ったこれは、何と一万円弱もした。はっきり言って、美海の普段着の上下合わせたよりも高い。
 琢郎は下品なのと露骨なのは好まない。それは若いときから変わらない好みだ。このネグリジェはうっすらと透けている程度で、いわゆる男性を誘うためのスケスケのものではない。色もデザインも淡いピンクで全体的に清楚で上品な印象である。
 淡い明かりを点しただけの寝室では、ネグリジェの光沢ある生地を通して、美海の身体の線がくっきりと際立って見えるはずだ。琢郎にはあからさまな媚態を見せるよりは、そうやって控えめにアプローチする方がより効果的に違いない。
 ここまで考えて、更に美海は憂鬱になった。これでは、まるで商売女が客をいかにすれば虜にできるかと手練手管を弄しているようではないか。何もこの世で琢郎だけが男というわけでもないのだし、何で妻であるというだけで、自分が夫の気を引くために娼婦のような真似をしなければならない?
 それでも、何かをしなければ、自分たちはもう本当に駄目になってしまう。それは美海にも判っていた。この歳になって、離婚するだなんて、考えただけでもゾッとする。それは恐らく、琢郎を愛しているとかいう気持ち以上に、今の安定した日々を失いたくないという気持ちが強かったからだ。
 琢郎の妻となって十一年、美海はもうすっかり、一人の女としてよりは〝矢坂琢郎の妻〟という立場に慣れきっていた。何のときめも希望もない代わりに、不安も哀しみもない生活。今更、一人に戻ったところで、アラフォーのしかも特に美人でもなくスタイルも良いわけでもない自分に新しい出逢いが転がり込むとも思えなかった。
 つまり、今の安定した暮らしを失いたくない、その一心がこうした姑息な―何が何でも夫をその気にさせようという気持ちに美海を駆り立てているのだともいえる。
 もしかしたら、夫婦間の意思疎通を図る手段は他にもあるのかもしれなかったけれど、今となっては、美海にはこれくらいしか思いつく手段がなかった。
 美海はまた小さな息を吐き、ドレッサーの上についた付属の小さな明かりを消した。シルクのネグリジェの胸許を無意識の中に直し、立ち上がる。
 さあ、これからがいよいよ勝負だ。自室から一旦廊下へ出て夫婦の寝室へと続くドアを開けると、琢郎は既にダブルベッドに入り、こちらに背を向けていた。
 何もかもを―美海までをも拒絶しているあの背中を見ただけで、折角かき集めた勇気も萎みそうになる。
「―あなた、起きてる?」
 声をかけるのには更に勇気を要した。
「ねえ、琢郎さん―」
 言いかけた時、琢郎のくぐもった声が聞こえてきた。
「何だ」
 いかにも興味のなさそうな声に、心がはや折れそうになる。美海は琢郎の側に近づき、その肩に軽く手をのせた。
「今夜はどう?」
「今夜? 一体、何を言ってるんだ」
 琢郎の声がいっそう不機嫌になった。
「だから―」
 夫婦二人きりの寝室である。この科白だけで美海の言わんとしているところは十分すぎるほど伝わると思うのだが、琢郎は本当に気づいていないのか、フリをしているだけなのか、一向に乗ってこない。
 美海の中で惨めさだけがいや増していく。
「久しぶりに、どうかなあと思って」
 それが美海の口にできる限界であった。
 ストレートに〝しない?〟と口にできるほどの勇気も大胆さもおよそ持ち合わせてはいない。良くも悪くも、それが自分という人間なのだ。
「ねえ、琢ちゃん」
 交際期間、美海は夫を〝琢ちゃん〟とふざけて呼ぶことがあった。それは大抵、二人が良い雰囲気のときに限っており、琢郎は美海からそう呼ばれると、すごぶる機嫌が良くなったものだ。
 しかし―。今夜はどうやら、美海のとんだ見当違いだったようである。というより、既に琢郎という男そのものが変わってしまったのかもしれない。美海がこの十一年の結婚生活で変わってしまったように。
 琢郎の肩に手を乗せたまま、夫の背中に頬を預けようとしたまさにその寸前だった。
「止さないか!」
 氷の欠片を含んだような冷え切った声音が美海の心を切り裂いた。
 琢郎がガバと身を起こし、美海を見据えた。
「一体、今夜に限って、どうしたっていうんだ? 安っぽい下品な匂いをプンプンさせて、水商売の女のような格好をして」
 美海を見つめるその瞳もまた、真冬の海のように冷たかった。心なしか、その奥底にはかすかな蔑みすら込められているようで。
 ああ、私たちはもうこれでおしまいなのだ。
 美海の心に絶望がひたひたと押し寄せてくる。
 どうして、もっと早くに夫との関係を修復しようとしなかったのだろう。今日、明日とじりじりと先延ばしにしている間に、自分たち夫婦の関係はとうとう修復不可能なところまで来てしまっていたのだ。
「何だ、俺に抱いて貰いたいのなら、はっきり言えよ。第一、お前にはそんな格好は似合わないぞ」
 その科白は美海をどん底に突き落とした。
「酷いわ。そんな言い方はないでしょう」
「つべこべ言ってないで、来るなら来いよ。ほら」
 ふいに強く腕を引かれ、美海は危うく、よろめき転びそうになった。
「急に危ないじゃない」
「いちいち文句を言わなきゃき気が済まないのか? 全く、口うるさいのはいつまで経っても変わらないな。さっさとしてくれないか、俺は疲れてるんだ。お前がしたいなら付き合ってやるから、さっさと事を済ませて眠らせてくれ」
 ここまで言われては、美海のなけなしの自尊心も流石に保ちそうになかった。
 美海は涙を堪えて言った。