Thank you , a Wonder Land
あの時わたしは、疲れていた。
仕事、社交、世辞、保身――。こんなものたちに、一体なんの意味があるのだろう。そう、思ってしまった。
大人とはこういうものだと、理解していたはずなのに。……認識が、甘かったのだろう。
――さて、そんな日々に疲労感を募らせたわたしだったのだが、ある時不思議なことが起こったのだ。これから、それを皆様にお伝えしよう。
◇◆◇◆
現実逃避も兼ねて、わたしは里帰りをしていた。幼少期を過ごした、少し広めの木造の屋敷。久しぶりに訪れたそこは、記憶の中と一致する部分も多いものの、積み重ねた年数を感じさせるくらい、痛んでいた。
同時に感じる、懐かしさともどかしさ。居たたまれなくなったわたしは、荷物を置いて庭へ足を向けることにする。
大分、草に侵食されている芝生に腰を下ろし、広葉樹の葉に遮られている空を見上げる。
そういえば昔、ここで不思議なことがあったような――
ふと、そんなことを思った。だがそれを具体的な形として浮かべることはできなかった。どこかぼんやりと、靄に邪魔をされているような……ひどくあやふやな状態。
そんな時だ。その“不思議”が、茂みから現れた。
「遅刻だ、遅刻だ! 急がなきゃ! 女王陛下に怒られる!」
二本の足でしっかりと立ち、白くふくよかな耳を生やし、燕尾服を身に纏い――人間の言葉を話す。
現れたのは、現実的という言葉に真っ向勝負を仕掛けている、可愛らしいウサギだった。
忙しなく、けたたましく。それこそ何も言わずに走った方が早いのでは、と思うくらい大騒ぎをしながら、そのウサギは駆けていく。
走り去ろうとするウサギ。なぜだかわたしは「追いかけなければいけない」という焦りを感じた。よく考えれば、その必要性なんて微塵もないことに気付けるはずなのだが、この時わたしは、その焦りに懐かしさを感じていた。こんなギャンブルに身を投じるような思いつきに、どうして懐かしさを感じるのかは皆目見当つかないのだが。
しかし思いとは反対に、わたしは何の迷いもなくウサギを追いかけ、――そして大きな穴に身を投じることになった。
下から上へ。強い風がわたしを阻むように突き抜ける。
浮いているテーブルや椅子。そこらじゅうにあるドア。大人らしからぬ好奇心が、わたしの中でくすぶった。
いつの間にか、追いかけていたはずのウサギの姿はなく。わたしはただ、一人で穴の底へ落ちていく――
小さくなる小瓶の液体と、大きくなるクッキーを口に入れて泣いた後、わたしは木の上から見下ろしてくる猫を見つけた。
にんまり笑うその猫を、わたしは不思議と怖いとは思わなかった。
「やあ、アリス。久しぶり」
「あら、あなたも喋るのね」
「そりゃそうさ。喋らなきゃ、意思の疎通は計れないよ」
当たり前のことを言っているのに、どこか謎かけめいた言い方だ。
深く追求したい欲求を押し殺し、わたしは別の質問を投げかける。
「なんであなたは、わたしを知っているの?」
「きみがアリスだからだよ」
「……答えになってないわ」
この猫は、まともに答える気はあるのだろうか。いや、それ以前に、猫にまともな答えを求めるべきではないのではないか。
悩むわたしを眺めながら、猫は楽しそうに笑った。
少し進んだわたしは、帽子の人に誘われて、お茶会に参加させてもらった。
参加者は、わたしと帽子の人、それからおどけた兎と、眠り続ける鼠。
「さあアリス、きみの為に用意したブドウ酒だ」
カップになみなみとブドウ酒が注がれた。
「わたしが来ると、知らなかったはずなのに?」
「知っていたさ。だってきみがアリスだからね」
「……意味が分からないわ」
彼らも、まともに答える気がないらしい。
わたしは深くため息を吐いた。
木に張り付いたドアを開ければ、見事な薔薇園が広がっていた。
そしてその一角で、トランプ模様の服を着た人たちが、顔を青ざめ慌てていた。
「大変だ! 間違えて、白い薔薇を植えてしまった!」
「女王陛下に首を刎ねられる!」
物騒な言葉が聞こえてしまったので、無視ができなくなったわたしは、彼らに提案した。
「赤いペンキはあるかしら? それで白薔薇を赤くしましょう」
我ながら、幼稚な案だ。ペンキで赤くしたら、今度はそこら一帯にペンキの臭いが充満してしまうではないか。
なぜ、こんなことを言ったのだろう。
「さすがアリス!」
「ありがとう。これならぼくらは、殺されずに済みそうだ!」
疑問と不安を抱くわたしとは対照的に、彼らは名案だと口々に賞賛し、喜び勇みながらペンキを探しに行ってしまった。
「……なんで、ペンキなんて言ったんだろう。どうして、彼らはわたしを知っているのだろう」
わたしは彼らを知らない。こんな不思議な場所も、不思議な出来事も。知らないし、聞いた事もない――はずだ。
「わたしは何を忘れているの?」
もしかしたら、それは遠い昔の、忘れ去ってしまった体験のことかもしれない。
気が付くと、わたしは横長の机たちに囲まれた、ホールにしては小さめな部屋に辿り着いた。机の並び方や、目の前の腰よりやや高めの台、前方の大き目の机。おそらくここは、この世界の法廷だ。
「来たことなんて、ないはずなのに。なんでわたしは、ここを懐かしいと思ってしまうんだろう」
法廷だけではない。木々や建物小物から、これまで出会ってきた住民たちまで。皆を懐かしく、愛おしく感じてしまう。
初めて来る場所に、そんな感情を抱くわけがない。
「わたしはここを知っている……?」
「そうとも。お前はここを知っている」
固い床と固い靴の乾いた音を響かせながら、冠を頭に乗せ、兵士を従わせた女性が奥から姿を現した。
「お前はここに来た事がある。だから、わたしたちもお前を知っている。……なのにお前は、わたしたちを忘れてしまった」
最初は淡々と、だが語尾は怒りを込めて。彼女はわたしを睥睨しながらそう告げた。
「わたしたちを忘れたお前に判決だ! 首を刎ねておしまい!」
高らかと女性が判決を下すと、彼女の後ろにいたはずの兵士が、ずらっとわたしを囲みだす。
「待って! 女王様!」
慌ててわたしは声を張り上げた。恐怖から、ではない。焦りからだ。
「今まで忘れててごめんなさい。本当に、ごめんなさい。……そして幸せをありがとう、“ウサギさん”」
心の底から、お礼を言った。10歳のわたしと、今のわたし。二人のわたしを救ってくれた、住民に。
いつの間にか、乾いた靴音は消えていた。女王様も、兵士たちも、法廷も、消えていた。
そして代わりのように、はじまりのウサギが、姿勢を伸ばしてわたしを見つめていた。
「ありがとう、アリス。ぼくらを思い出してくれて」
チクタクチクタク。秒針の音とともに、ウサギの声が響き渡る。
「辛くなったら、いつでもおいで。ぼくらはきみを、忘れない」
カチリと何かが嵌った音と共に、わたしは意識を手放した。
◇◆◇◆
そしてわたしは、芝生の上で目を覚ましたのだ。案の定、夢をみていた、ということだ。
仕事、社交、世辞、保身――。こんなものたちに、一体なんの意味があるのだろう。そう、思ってしまった。
大人とはこういうものだと、理解していたはずなのに。……認識が、甘かったのだろう。
――さて、そんな日々に疲労感を募らせたわたしだったのだが、ある時不思議なことが起こったのだ。これから、それを皆様にお伝えしよう。
◇◆◇◆
現実逃避も兼ねて、わたしは里帰りをしていた。幼少期を過ごした、少し広めの木造の屋敷。久しぶりに訪れたそこは、記憶の中と一致する部分も多いものの、積み重ねた年数を感じさせるくらい、痛んでいた。
同時に感じる、懐かしさともどかしさ。居たたまれなくなったわたしは、荷物を置いて庭へ足を向けることにする。
大分、草に侵食されている芝生に腰を下ろし、広葉樹の葉に遮られている空を見上げる。
そういえば昔、ここで不思議なことがあったような――
ふと、そんなことを思った。だがそれを具体的な形として浮かべることはできなかった。どこかぼんやりと、靄に邪魔をされているような……ひどくあやふやな状態。
そんな時だ。その“不思議”が、茂みから現れた。
「遅刻だ、遅刻だ! 急がなきゃ! 女王陛下に怒られる!」
二本の足でしっかりと立ち、白くふくよかな耳を生やし、燕尾服を身に纏い――人間の言葉を話す。
現れたのは、現実的という言葉に真っ向勝負を仕掛けている、可愛らしいウサギだった。
忙しなく、けたたましく。それこそ何も言わずに走った方が早いのでは、と思うくらい大騒ぎをしながら、そのウサギは駆けていく。
走り去ろうとするウサギ。なぜだかわたしは「追いかけなければいけない」という焦りを感じた。よく考えれば、その必要性なんて微塵もないことに気付けるはずなのだが、この時わたしは、その焦りに懐かしさを感じていた。こんなギャンブルに身を投じるような思いつきに、どうして懐かしさを感じるのかは皆目見当つかないのだが。
しかし思いとは反対に、わたしは何の迷いもなくウサギを追いかけ、――そして大きな穴に身を投じることになった。
下から上へ。強い風がわたしを阻むように突き抜ける。
浮いているテーブルや椅子。そこらじゅうにあるドア。大人らしからぬ好奇心が、わたしの中でくすぶった。
いつの間にか、追いかけていたはずのウサギの姿はなく。わたしはただ、一人で穴の底へ落ちていく――
小さくなる小瓶の液体と、大きくなるクッキーを口に入れて泣いた後、わたしは木の上から見下ろしてくる猫を見つけた。
にんまり笑うその猫を、わたしは不思議と怖いとは思わなかった。
「やあ、アリス。久しぶり」
「あら、あなたも喋るのね」
「そりゃそうさ。喋らなきゃ、意思の疎通は計れないよ」
当たり前のことを言っているのに、どこか謎かけめいた言い方だ。
深く追求したい欲求を押し殺し、わたしは別の質問を投げかける。
「なんであなたは、わたしを知っているの?」
「きみがアリスだからだよ」
「……答えになってないわ」
この猫は、まともに答える気はあるのだろうか。いや、それ以前に、猫にまともな答えを求めるべきではないのではないか。
悩むわたしを眺めながら、猫は楽しそうに笑った。
少し進んだわたしは、帽子の人に誘われて、お茶会に参加させてもらった。
参加者は、わたしと帽子の人、それからおどけた兎と、眠り続ける鼠。
「さあアリス、きみの為に用意したブドウ酒だ」
カップになみなみとブドウ酒が注がれた。
「わたしが来ると、知らなかったはずなのに?」
「知っていたさ。だってきみがアリスだからね」
「……意味が分からないわ」
彼らも、まともに答える気がないらしい。
わたしは深くため息を吐いた。
木に張り付いたドアを開ければ、見事な薔薇園が広がっていた。
そしてその一角で、トランプ模様の服を着た人たちが、顔を青ざめ慌てていた。
「大変だ! 間違えて、白い薔薇を植えてしまった!」
「女王陛下に首を刎ねられる!」
物騒な言葉が聞こえてしまったので、無視ができなくなったわたしは、彼らに提案した。
「赤いペンキはあるかしら? それで白薔薇を赤くしましょう」
我ながら、幼稚な案だ。ペンキで赤くしたら、今度はそこら一帯にペンキの臭いが充満してしまうではないか。
なぜ、こんなことを言ったのだろう。
「さすがアリス!」
「ありがとう。これならぼくらは、殺されずに済みそうだ!」
疑問と不安を抱くわたしとは対照的に、彼らは名案だと口々に賞賛し、喜び勇みながらペンキを探しに行ってしまった。
「……なんで、ペンキなんて言ったんだろう。どうして、彼らはわたしを知っているのだろう」
わたしは彼らを知らない。こんな不思議な場所も、不思議な出来事も。知らないし、聞いた事もない――はずだ。
「わたしは何を忘れているの?」
もしかしたら、それは遠い昔の、忘れ去ってしまった体験のことかもしれない。
気が付くと、わたしは横長の机たちに囲まれた、ホールにしては小さめな部屋に辿り着いた。机の並び方や、目の前の腰よりやや高めの台、前方の大き目の机。おそらくここは、この世界の法廷だ。
「来たことなんて、ないはずなのに。なんでわたしは、ここを懐かしいと思ってしまうんだろう」
法廷だけではない。木々や建物小物から、これまで出会ってきた住民たちまで。皆を懐かしく、愛おしく感じてしまう。
初めて来る場所に、そんな感情を抱くわけがない。
「わたしはここを知っている……?」
「そうとも。お前はここを知っている」
固い床と固い靴の乾いた音を響かせながら、冠を頭に乗せ、兵士を従わせた女性が奥から姿を現した。
「お前はここに来た事がある。だから、わたしたちもお前を知っている。……なのにお前は、わたしたちを忘れてしまった」
最初は淡々と、だが語尾は怒りを込めて。彼女はわたしを睥睨しながらそう告げた。
「わたしたちを忘れたお前に判決だ! 首を刎ねておしまい!」
高らかと女性が判決を下すと、彼女の後ろにいたはずの兵士が、ずらっとわたしを囲みだす。
「待って! 女王様!」
慌ててわたしは声を張り上げた。恐怖から、ではない。焦りからだ。
「今まで忘れててごめんなさい。本当に、ごめんなさい。……そして幸せをありがとう、“ウサギさん”」
心の底から、お礼を言った。10歳のわたしと、今のわたし。二人のわたしを救ってくれた、住民に。
いつの間にか、乾いた靴音は消えていた。女王様も、兵士たちも、法廷も、消えていた。
そして代わりのように、はじまりのウサギが、姿勢を伸ばしてわたしを見つめていた。
「ありがとう、アリス。ぼくらを思い出してくれて」
チクタクチクタク。秒針の音とともに、ウサギの声が響き渡る。
「辛くなったら、いつでもおいで。ぼくらはきみを、忘れない」
カチリと何かが嵌った音と共に、わたしは意識を手放した。
◇◆◇◆
そしてわたしは、芝生の上で目を覚ましたのだ。案の定、夢をみていた、ということだ。
作品名:Thank you , a Wonder Land 作家名:テイル