読んじゃダメだよ
多くの日本人がそうであるように、私はその夜も風呂に入る。
風呂は静かだった。そもそも今夜は妙に静かだ。昼間はあれほど蝉がうるさかったのに、夜になると蝉は勿論、他の虫の鳴き声ですらこの世から消え去ってしまっていた。
湯水を手桶に取り、肩口から掛ける。掛け湯だ。
髪を洗う為にシャンプーを手に取る。洗剤が眼に入らぬように眼を瞑る。
眼を閉じると、同時に世界が閉じてゆく気がする。内へ内へと自分の意識が落ちてゆくのだ。
――ふと、何か不純物が世界に雑じる気がした。
なんだ、これは。何かよくないモノが近くにいる気がする。
ああ、まずい。この感覚はまずい。背筋をなぞる正体不明の気配。それが私の意識を埋め尽くしてゆく。
きっと眼を開ければその妄想もかき消えるだろう。なのに、私は眼を開けることができなかった。恐ろしくてしょうがないけれど、結果を見てしまうのがそれより余程怖い。知らないままでいた方がいい。そう思ってしまう。
しかし、いずれは眼を開けなくてはならない。
そうして私は眼を開けるまで、その気配に怯えることになる。
ここで忠告しておこう。
――読んではいけない。聞いてはいけない。見てもいけない。考えてはならず、思ってもならない。
それは日常の中に潜む恐怖だ。部屋の壁一枚向こうにある恐怖の片影。それはひょっとしたことで姿を見せる。
「お風呂に何か居た、ねぇ」
「マジで。マジであの風呂場何かいるってっ!」
次の日、そのことを友人に言った。この友人はそういったオカルトに詳しい人物である為、もしかしたらその謎の気配について何か知っているのかも知れない、と思ってのことだ。
「あんたもヤキが回ったわね。そんなくだらないことを気にするなんて」
ぐぅ、相変わらず一言多い女だ。
「良いから! 何か知ってることない?」
「そうね……お風呂に入る前に何か、そーいう本とか番組に触ってたりしない?」
「ネットの洒落怖系のまとめサイト行ったけど、そんなので怖くなるようなタマじゃないって、お前さんが一番分かってるよね」
「そりゃあんたは警戒心皆無の怖いもの知らずってのは分かってるわよ。――で、続けるけど。お風呂でその話を思い出したりとかした?」
「するよ。だって風呂入る直前に読んだんだから」
普通に考えれば怪談を読んで怖くなった、というのが筋の通る話だ。だけど、それが正解だと、私は思えなかった。
「ダメだよ、それ。お風呂に入る前はね、絶対読んじゃダメだよ」
彼女はそう口にした。
「なんで?」
「……ねぇ、知ってる。お風呂ってね、家の中で一、二を争うぐらい危険な場所なんだ」
「そりゃ、階段とお風呂ぐらいでしょ、家の中で人が怪我したり死んだりするのは」
特に冬場は危ない。冬の風呂場で多くのご老人が亡くなっている。後は泥酔者が溺れ死んだり、チゲ鍋になったり。いや、チゲ鍋はただの都市伝説だけど。
「そういうことじゃないのよ。まあ、関係ないってことはないんだろうけどね。他にね、キッチン、トイレ、お風呂。この三つなんかがやばいって言われるわね」
「ん? 水場?」
「そ、水場。有名な話でね、その類のモノは水場に集まりやすいって言うのよ」
「でも、それじゃあ日本全国のお風呂は心霊スポットになっちゃうじゃない」
「そうね、でもこれからがミソなのよ。まず一つ目、お風呂場という水場。これはさっき説明した通りね。そして二つ目。それがお風呂に入る前にそういうモノに触ったことよ」
「それがどうしたって言うの?」
「そういうのってね、考えたりすると引き寄せるのよ。ほら、言うじゃない。車に轢かれて死んだ猫を見ても『かわいそう』だとか思っちゃダメだって。それはね、『この人なら助けてくれる』って思って憑いてきちゃうから、って言われてるわね。それから考察するに、そういったモノに触れることにより表層、深層問わずにそれらを意識しやすい環境を作ってしまう」
そして、彼女は眼を閉じる。
「そして三つ目。眼を閉じてしまったこと。眼を閉じるということは、人の情報入力装置の一つをシャットダウンするということ。ということは、視界以外の方法によって情報を収集しなくてはならなくなるということよ。なんでもないような情報でも過敏に反応してしまうのよ。それによって起こることはね、『イメージの暴走』よ」
「イメージの暴走?」
「妄想って言ってもいいわね。眼を閉じて情報を絞ることにより、脳は数少ない情報から状況を判断しようとして、何でもないような情報でも判断材料にしてしまう。結果、何もない空間に居もしないモノを幻想する。初めは妄想以外の何物でもない想念は、やがて二つ目の要因に従って、本物を引き寄せる。轢かれた猫のようにね。
――一つ一つ単体ではそれほど強烈な要因にはならないけれど。それが二つ三つと重なることにより、それは一つの原因となる。そうね、そう考えると、もしかしたら――」
そう言って、彼女は瞼を上げる。
「本当に、そこには何かいたんじゃない?」