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The El Andile Vision 第5章 Ep. 2

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第5章「迷走」---Episode.2 魔性の囁き



「……ザーレンさま」
 鈴を振るような涼やかな声に、ザーレン・ルードはふと足を止め、振り返った。
 声のしてきた方向――渡り廊下の向こう側に見えたのは、薄いモスリン地の紫色のドレスに全身を包んだほっそりとした美しい女性の姿。
「……これは、義姉上……」
 ザーレンは軽く会釈した。
 その間に、女はゆっくりと彼に近づいてきた。
 俯く彼の耳に軽い衣擦れの音が聞こえた。
 次に目を上げると、すぐ目の先からその愛らしい顔が覗き込むようにこちらを見つめていた。
「……今からお茶を頂くのですが、少しお寄りになりませんこと?」
 囁くように耳元を掠める声が妙に艶めかしく響く。
 ザーレンは冷やかに見返した。
「――申し訳ありませんが、これから所用がありますので……」
 女は肩をすくめた。
「そう言われると思いましたわ。最近はすっかりご無沙汰ですものね。……何かわたくしを避けてでもいらっしゃるかのような――」
 ザーレンは笑った。
「そのようなことは……」
 他意を感じさせない、ごく自然な笑みだった。
 どこまでも抜かりない……と、女は一瞬相手に矢のような視線を投げた。
「そう……ではお待ちしておりますわ。――今宵でも……」
 さりげなくかけられた言葉の中には、紛れもない強制の匂いが嗅ぎ取れた。
 ザーレンは軽く眉を上げた。
 彼が何か言おうとする前に、彼女は笑って手を上げた。
「……お気が向かれたらで結構ですわ。お気になさらないで」
 軽やかな笑い声を上げながら、美しい瞳が秘密めいた色を浮かべて彼を見た。
「――子飼の狼に手を咬まれたというのは本当でしたのね……」
 その瞬間、ザーレンの顔の色が僅かに変化するのを彼女は楽しげに眺めた。
「……ユアンさまが申されておりましてよ。――迫真の演技でしたわね。何も知らない者が見れば、簡単に騙されてしまうくらい。……にしても、あの冷酷さ……いかにもあなたらしい……」
 彼女が先日の大葬の儀式での一件を指して言っているのは明らかであった。
 彼女はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。
「……では、また後ほど……」
 ドレスの裳裾が軽やかに揺れた。
 彼女が悠然と去っていくその後ろ姿を、ザーレン・ルードは身じろぎもせず、見送っていた。


(……あの女……!)
 城館の中の自室に入ったとき、彼は思わず嘆息した。
 サヴィーナ・ドリス……燃えるような、緋色の髪に褐色の肌。
 時に獣のような狡猾さと鋭さを放つ深緑の瞳。
 この辺りでは見かけぬような特殊な風貌。
 確か、草原の民(チェロム)の血を引くといっていた。
 だが美しい……ぞくりとするほど、冷酷な瞳をする。凍りつくような美貌……。
 これほどあの温厚なランス・ファロンと釣り合わぬものもないように思われたが、なぜか兄にしては珍しくこの女への執心を見せた。
 その結果、周囲の反対を押し切り、サヴィーナ・ドリスは見事にランス・ファロンの妃の座を射止めたのだった。
 今となっては、最初から彼女が野心を抱いてランス・ファロンに近づいたのは明白だった。
 ザーレンはこの冷たい瞳の女に最初から漠然とした警戒心を抱いていた。ゆえに、わざと距離を置くように心がけて接していた。
 それが向こうにはよくわかったのだろう。
 彼の素っ気ない態度が、逆に彼女の関心を引いたのかもしれない。
 彼女はザーレンに近づいた。
 露骨な態度をとるわけではなかった。
 義姉としての親しみを込めた微笑を浮かべながら声をかけ、さりげなく体を寄せる。
 何を危ぶまれる必要もないような、ごく自然な接触に見えた。
 しかし、サヴィーナは狡猾だった。
 体を寄せるたび、彼女の全身からは必ず男を誘うような、何かしら艶めいた信号が発せられているかのようだった。
 何も言われずとも、彼女の体を間近に感じた瞬間に、その意図ははっきりと伝わってきた。
 ザーレンの警戒心は強まった。
(……この女……)
 危険な女だ、と彼は思った。……この女に近づいてはならない。
 しかし、同時にその美しい魅惑的な肉体が彼の雄としての若い本能をそそり立てずにはおれないのもまた事実だった。
 なぜなのか。
 いつも冷静な彼が、サヴィーナの瞳に射られた瞬間、どことなく落ち着きを失うようになっていた。
 まるで、その瞳に魔性の気が宿っているとしか思えぬくらい……。
(馬鹿げている……)
 ザーレンは自嘲した。
 ――女ならどこにでもいる。何もこの女でなくてもよいはずではないか。
 兄の妻であり、しかもこのような得体の知れぬ女を……。
 なぜだろう。なぜ、この女がこんなにも心から離れない……?
 混乱しながらも、いつしか女の仕掛ける甘い誘惑の罠に陥っていく自分を止めることができなくなっていた。
 ――ザーレン様……わたくしを抱いて……
 ある夜、彼女は彼にそっと囁いた。
 ――わたくしをお抱きになりたいと思っておられるのでしょう。
(あなたになら、抱かれてもいい……)
 兄は州内の長期の巡察に出かけており、留守だった。
 婚姻からまだ三カ月も経たぬうちに、彼は兄の花嫁を抱いた。
 それからは定期的に密会は続いた。
 彼から誘うことはなかった。いつも手を伸ばしてくるのは女の方からだった。
 自分が決して女に溺れているわけではないと思ったが、サヴィーナの誘いをはねつける意思もなかった。
 そのように、ひそかに……義姉と義弟は体を重ねた。
 兄への罪悪感を感じながらも女との関係を断ち切れない、そんな自分に嫌悪を抱きながら、彼はサヴィーナを抱き続けた。
 ……サヴィーナが懐妊したと聞いたとき、彼は思わず言葉を失った。
(……あなたの子ではないわ。安心なさいな)
 サヴィーナは悪びれた様子もなく、あっさりとそう言ってのけた。
 無論その言葉を素直に受け取れるほど、ザーレンは単純ではなかったが、かといって真偽を確かめるすべもなく、そうかと頷くほかはなかった。
 ――もし、自分の子なら……
 そう思うとさすがにザーレンは、たじろいだ。
 しかし、また彼の胸の内には、怪しげな思考も首をもたげ始めていた。
 もし……それが男子なら――
 表向きは自分の子がこの領地の継承権を持つことになる。
 その考えは、彼にさまざまな可能性を想像させた。
 ぞくぞくと波立つような野心が彼の心をくすぐる……。
(いや、いけない)
 彼は沸き立つ思いを抑え、敢えて自制しようとした。
 何か……危険な罠の匂いがする。
 直感だった。
 そして、女の瞳を覗いた瞬間、それは確信に変わった。
 サヴィーナは、笑っていた。
 その嘲笑を目にしたとき、ザーレンの胸にいきなり、言いようのない憤りの感情がよぎった。
 女の邪悪な意図が、真っ直ぐに伝わってきたように感じた。
(全て自分の思う通りに事が運んだというわけだ……)
 もはや彼女のお腹の中にいる子が自分の子か兄の子かなどということはどちらでもよくなった。
 彼にはその瞬間、はっきりと彼女の考えが読み取れたような気がした。
 その瞳に宿る酷薄な冷たさを湛えた光。何もかも捨て去ったような、生気を感じさせぬ淡々とした表情。