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「神田川」の頃

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神田川


 「まるで『神田川』だね」とヒロシが言うとヒロコは嬉しそうにヒロシを見上げ、買ったばかりの洗面器とその中に入っているタオルや石けん等を確かめた。土曜の夜である。
 ヒロシは嬉しさで痛いほど頬の筋肉が喜びを表している。
 昼からだいぶ気温が下がって気持ちが良かった。二人並んでもっと歩いて見たいような気もしたが、すぐに銭湯に着いてしまった。銭湯の入り口で、ヒロコは「じゃあ、出る時に声をかけてくれる」と言った。ヒロシは「えーっ、はずかしいよ」と言った。たまに夫婦であろう二人が仕切ごしに声をかけているのを見たことがあったが、ヒロコは それをやれという。「そうね、私も恥ずかしいわ」と言ってから「じゃあ、外で待ってる」と言って中に入って行った。
 裸になりながら、外で待ってると言ったヒロコの言葉を反芻した。“る”が上がっていたから疑問形で、外で待っててくださいということだろうと思った。
 ヒロシは湯船に入ってから、身体を洗う。嬉しさに凝っている頬の筋肉を揉んだ。そんな行為がおかしくてまた頬の筋肉が笑いの顔をつくる。他人がみたら、かなりにやけてだらしがない顔なのだろうなあと思いながら頭を洗った。
 自分ではゆっくり洗ったつもりで、脱衣所に戻って時間をみたら二十分も経っていない。たぶん、ヒロコはまだだろうとヒロシは大きな扇風機にあたりながら思った。
 ヒロシは番台の側の飲み物を見て喉の渇きを覚えたが、ヒロコと一緒に飲みたいと思って銭湯の外に出た。ジュースの自動販売機があったのは確認してあった。季節外れだが『神田川」の歌詞が浮かんだ。銭湯からヒロコが出てくるのを待ちながら小さな声で口ずさんだ。
 ♪あなたはもう忘れたかしら
  赤い手拭い マフラーにして
  二人で行った 横丁の風呂屋
  「一緒に出ようね」って 言ったのに
  いつも私が 待たされた
  洗い髪が芯まで冷えて
  小さな石鹸 カタカタ鳴った
  貴方は 私の身体を抱いて
  「冷たいね」って 言ったのよ

作品名:「神田川」の頃 作家名:伊達梁川