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「神田川」の頃

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 商店街で、オモチャ屋を捜し、色々な花火を見ていたが、買ったのは線香花火だけだった。ヒロコが先に立って、ヒロシが追いかける様に境内まで戻った。道路にある街路灯の灯りが生け垣の陰を作っているが、この境内は薄暗くて一人では怖いかもしれないなとヒロシは思った。
「あ、マッチは?」と思い出したようにヒロコが言う。ヒロシはポケットから喫茶店の名前の入ったマッチをとり出した。
「ねえ、火を点けて」
 ベンチに座ってから、ちょっと前にネコを蹴飛ばした女とは思えない、優しい顔になってヒロコが言った。マッチを擦ってヒロコの持つ線香花火に火を点ける。ヒロコの小さな手と指が艶めかしく感じて、ヒロシは手元がくるいそうになった。やがて火薬が爆ぜてチカチカと火花が咲いた。うわーっとオーという声が控えめにあがって、二人は黙って最後に火の玉が地面に落ちるのを見てからふーっとため息のような息を出した。その間が一緒だったので二人で顔を見合って少し笑った。
 花火を持つ手がヒロシに移ってからヒロコは「小さい頃ね」と話しだした。
「物心ついた頃、父親はもう亡くなっていたっていったでしょ、それで花火はね、大きな音の出るものや少し危険と思われるものは母が許してくれなかったのね、だからほとんど線香花火だったの」
 ヒロシは黙って次の花火に火を点けて、ヒロコに持たせた。
「ほんとうに久しぶり」とヒロコは花火を持つ手を顔の前にあげた。ヒロコの顔が花火のせいで闇に浮かび上がり、ヒロシはそれを悲しく美しく思えてヒロコの肩を抱いた。ヒロコが身体を預けてくる。ヒロコの持つ線香花火が途中で地面に落ちた。あっとかすかにヒロコが言ったような気がした。それは最後の線香花火だった。
 どこかでネコの鳴き声がする。ヒロコは涙を流していた。ヒロシは泣いている訳がわからなくて、ただヒロコの肩を抱いたまま大きな樹の向こうに見える商店街の灯りを見ていた。どこかの酒場の有線放送だろうかから男女の別れの歌が聞こえていた。
 
作品名:「神田川」の頃 作家名:伊達梁川