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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~2

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 黙って屋敷を抜け出した凛花が悪いのに、凛花を一人で行かせた自分のせいだと思うに違いない。ナヨンは、そういう娘なのだ。
 もっとも、あの日、ナヨンが一緒でなかったのは幸いであったと今更ながらに思わずにはいられない。
 つまり、一人で町に出かけたあの日、凛花が遭遇した出来事をナヨンは知らないのだ。
「それよりも、文龍さまの方がお疲れのご様子なのが気になります。ご公務がそれほどまでに大変なのですか?」
 凛花が文龍の顔を覗き込むようにして訊ねると、文龍は虚を突かれたように怯んだ。
 こんな反応を見せた文龍は初めて見る。その違和感に戸惑いつつも、凛花はもう一度、繰り返す。
「代わりのきかない大切なお身体です。お勤めも大切なのは判りますが、どうかお身体を労って下さい」
 私のためにもと言いたい気持ちをぐっと堪え、凛花は文龍を見つめた。
「私のことなら、大丈夫です。先ほども申し上げましたように、些細なことにすぎませんし、文龍さまは毎日、義禁府で激務をこなされているのですから」
 私のことは本当にどうでも良いのです。
 小さな声で洩らした最後の科白を文龍は聞き逃さなかった。
「どうでも良くない!」
 突如として大きな声が響き渡り、凛花はピクリと身を震わせた。 
 気まずい沈黙が二人の間を漂った。
 文龍と知り合って二年になるけれど、二人だけでいて、これほど気詰まりな雰囲気になったのは初めてのことだ。
 いつも落ち着いていて、春の陽溜まりのように優しい文龍が別人のように声を荒げた。その事実に、凛花は大きな衝撃を受けていた。
 あまりのなりゆきに、凛花は声もない。小刻みに身体を震わせる凛花を見、文龍が溜息をついた。 
「済まない」
 抱きしめようと手を伸ばしかけた文龍から、咄嗟に凛花が逃れるように後退(あとずさ)る。文龍もまた、凛花のその予期せぬ反応に愕いたようである。
 眼を見開いていたかと思うと、ふっと昏い笑いを零した。
「どうも今夜は凛花を怖がらせてしまったよだ。申し訳なかった。大きな声を出して、さぞ愕いたろうね」
 文龍は静かな声音で言った。
 うつむいていた凛花は怖々と文龍を見上げる。もう、いつもどおりの優しい恋人に戻っている。
 凛花は心からホッとして、弱々しい笑みを浮かべた。
「いいえ、私の方こそ、文龍さまが心から心配して下さっているのに、はぐらかそうとしたりして。ごめんなさい」
 文龍は穏やかな声で続けた。
「結婚を決めた時、私たちの間で隠し事はしないと約束したはずだ。たとえ、どのような小さなことでも、問題が起きたら二人で相談し合って、解決してゆくと君は言ったね」
 畳みかけるように言われ、凛花はまたうつむく。
 依然として何も言わない凛花に、今度は文龍も辛抱強く向き合った。
「頼む、お願いだから、何があったか話して欲しい。もしかしたら、これは凛花だけではなく、私たち二人の問題なのかもしれないから」
 私たち二人の問題。そのひと言は凛花の心を動かした。
 視線を上げると、文龍の真摯なまなざしがこちらに向けられている。
―やっぱり、この男(ひと)に嘘はつけない。
 たとえ、文龍に余計な心配をかけることになったとしても、ここまで言われて真実を打ち明けないわけにはゆかなかった。
 それに、彼の言うとおり、凛花が今、直面している葛藤は、文龍と二人で築いてゆくはずの未来に大いに影響するかもしれないのだ。
 文龍が近づいてきたかと思うと、どっかりと腰を下ろす。上体を前にかがめ、自分の膝に肘をついた。
 至近距離でしげしげと見つめられ、凛花の白い頬が染まる。
「あ、あの」
 幾ら何でも、この距離は少し近すぎはしないか。そう思っても、緊張のあまり声が出ない。心ノ臓がトクトクと脈打って、この静けさでは文龍に煩く跳ねる鼓動を聞かれてしまうのではないと思うほどだ。
「良いから、言ってごらん」
 文龍が促すと、凛花は勇気を振り絞るかのように胸の辺りを右手で押さえ、紅を乗せた唇を開く。
「半月ほど前のことになります」
 凛花は九月の半ば頃、ナヨンと二人で漢陽の町に出かけた日の出来事から語り始めた。
 常のように、文龍は凛花の話に静かに耳を傾けている。凛花はこれまでのあの男との拘わりを順を追って話していった。もちろん、あの右議政の息子だという嫌な男と二度目に逢ったときのことも包み隠さず打ち明ける。
「つまり、あやつは凛花にもちょっかいを出していたわけだ」
 文龍が唇を噛み、悔しげな表情を浮かべた。
「確か右相(ウサン)大(テー)監(ガン)の息子だと名乗っていましたが」
 凛花が言い添えると、文龍は頷いた。
「その言葉に嘘はない。現在の右議政朴真善どのの嫡男、朴直善だ」
 凛花も顔を曇らせる。
「仮にも右相大監の嫡子たるお方が町の酒場でごろつきのように暴れていたのです。ナヨンには止められましたけれど、私、どうしても見過ごしにはできませんでした。酒場の女将があまりにも気の毒で」
「そなたは何も間違ったことはしていない」
 文龍の男らしい声が降ってきて、凛花はハッと顔を上げた。
 文龍の優しいまなざしに思わず頬が熱くなる。
「両班に生まれたのも、父親が右議政なのも、何もあの男が偉かったわけではない。何の努力もせず、のほほんと与えられる特権を享受しているだけだ。なのに、身分にどっかりと腰を据えて、弱き民をいたぶり、苦しめるとは両班の風上にも置けぬ奴だ」
 文龍は吐き捨てるように言った。普段、他人を悪くなど言ったことのない彼がここまで言うからには、相当腹に据えかねているのだろう。
「よくやった、凛花。そなたは自分の危険をも顧みず渦中に飛び込み、酒場の女将を助けた。その気概は大の男でもなかなか真似できるものではない。私は、そなたを誇りに思うよ」
「そんな」
 凛花は頬を紅くしながら、かぶりを振った。
「私は、そのように褒めて頂くほどのことは何もしていません。ただ、人として当たり前のことをしただけですもの」
「人として当たり前のことか」
 文龍は凛花の言葉をそのままなぞり、思案に耽るような眼で宙を見据えていた。
「そなたは当然の行為だと言うが、その当たり前のことができる人間はそうそうはおらぬ。皆、心は痛んでも、自分が巻き添えになるのを怖れて他人の不幸は見て見ぬふりをして通り過ぎるものだ」
 〝凛花〟と呼ばれ、凛花は文龍を見つめた。
「そなたは、これからもそなたらしく生きてゆくのだよ」
「私らしく?」
 今度は凛花が文龍の言葉を繰り返す番だった。不思議そうに見上げる凛花に、文龍は優しい笑みで頷く。
「そうだ。何をも怖れず、困難を困難とも思わず、試練と受け止めて自力で乗り越えてゆく。そなたの雄々しさに私は惚れた。これから先、何があったとしても、そなたにはその強さ、優しさを失わないで欲しい」
「判りました。私は文龍さまのおっしゃるように、自分がそんな凄い人間だと思ったことはないのですが、文龍さまがそのように思っていて下さるのなら、そう致します」
 文龍が両手をひろげる。
「おいで」
 しかし、凛花は首を振った。正式に婚約してから一年近く経つが、文龍とは実はまだ、口づけどころか抱擁したこともないのだ。