ボタン
1 教会にて
「ああ、神父様、神父様、どうか聞いてください。僕の犯した罪を。大きな過ちを。僕は取り返しのつかないとても大きな罪を犯してしまいました」
北沢悟は町外れのとある教会に来ていた。自分の罪を懺悔するために。北沢は信心深いわけでもなかったし、キリスト教徒でさえなかった。しかし、自分の犯した罪のために、心が押しつぶされてしまいそうだった。救いが欲しかった。神にもすがりたかったのだ。神父は言う。
「どうぞお話し下さい。神の御前で、全てを告白するのです」
神父の言葉を受け、北沢は思い出す。一年前の出来事を。
「はい・・・、神父様・・。あれは・・・、あれは一年前のことです・・・」
そして北沢は、一年前に犯した自身の罪のことを語り始めた。
2 エレベーターにて
北沢は早慶大学の文学部に所属していた。専攻は日本文学だった。その日北沢は、日本史の講義に出席するために大学に来ていた。大学の敷地内には9つの建物があり、それぞれに一号館、二号館~九号館という呼ばれ方をしている。日本史の講義は一号館の9階で実施されていたが、一号館は建物が古く、また大学の敷地内でも入り口から一番遠い所にあるため、北沢はそれをとても不満に思っていた。日本史の講義は不人気で受講者数も少ないため、こんな不便なところを使っているのだろうと、北沢は決め付けていた。普段どの講義でも早めに教室に行くことが習慣になっている北沢だったが、この日は特に早く一号館に着いていた。9階までは当然エレベーターを使う。その日もいつも通り、北沢はエレベーターのボタンを押した。カチ、カチ・・・カチカチカチ。エレベーターの呼び出しボタンを押す。しかし何度押してもエレベーターは6階に止まったまま降りてこなかった。冗談じゃない、と北沢は思った。階段で9階まで上がるなんて考えただけで疲れてしまう。とは言え、動かないものは動かない、諦めて階段を使うしかないのか、そう思った時、不意に後ろから、北沢は声をかけられた。
「すいません、そこのお兄さん」
北沢は振り返って声をかけた相手を見た。その男は(声で男と分かったのだが)全身黒ずくめのスーツに、黒いサングラス、マスク、帽子という格好だった。後から思い出せば怪しい格好だったと考えられるのだが、その時の北沢は特に気にするでもなく、何気なく応じた。
「はい?なんですか?」
「そこのエレベーターのボタン、故障していますよ」
「え・・・やっぱり壊れてるんですか・・・。さっきから何度押しても反応しないから、壊れてるんじゃないかとは思ったんですけど・・。はぁ・・・じゃあ階段使うしかないですね・・・」
北沢は肩を落とした。
「ああ、いえいえ、大丈夫ですよ。そこのボタンが直るまでの間の応急処置として、そちらの壁に臨時のエレベーター呼び出しボタンが取り付けられたんですよ」
男はそう言って、北沢から見て右側の壁を指差した。見ると、確かにボタンがあった。通常の呼び出しボタンの形とは違い、応急処置のそれらしく、丸い形をしたボタンだった。
「ああ、よかった!これで階段を使わないですみますよ!わざわざご親切にありがとうございます!」
「いえいえ、どういたしまして」
そうして挨拶をすませると、黒ずくめの男はその場を立ち去った。本当に助かった、そう思って北沢は臨時に備え付けられたという丸いボタンを押した。数秒後、けたたましい音の爆発音が鳴り響いた。
3 バスにて
その事件は爆弾テロの可能性もあるとして、マスコミでセンセーショナルに報道された。大学の近くに仕掛けられた爆弾によって、12名の人が命を落とすという悲劇的な事件だった。警察の調べによって、北沢の押したボタンが爆弾の起爆スイッチであるということが分かった。ただし、爆弾は大学敷地外に仕掛けられていたため、北沢自身は無傷で無事である。北沢は起爆スイッチを押した張本人なので、警察に事情聴取を受けた。警察に事情を聴かれたとは言え、あくまで参考人としてであり、容疑者としてではなかったし、当然逮捕もされてはいない。警察が北沢に抱いた印象も、白に近い印象であった。
しかし、学校内ではそういうわけにはいかない。起爆ボタンを押し、さらには警察に呼ばれたという噂は、すぐに校内を駆け巡った。その日から、周囲の人間がどことなく北沢を避けるようになった。日に日に、北沢は孤立していった。まるで容疑者扱いだった。
学校で孤立するようになった北沢は、日常生活を全て一人で過ごすようになった。授業への出席、学校での食事、学校の行き帰り、全て一人ぼっちだった。こんなことが起きる前までは、いつも友達とわいわい過ごしていたのに、今では自分の近くには誰も寄ってこない。もはや北沢にとって学校は苦痛でしかなかった。その日も全ての講義が終わると、一人で家路についた。
北沢は通学にバスを使っている。その日も普段どおり、帰りはバスを使った。
「次は目白川、目白川。お降りの方は降車ボタンでお知らせください」
いつも通りのバスのアナウンスが聞こえる。目白川は北沢が降りるバス停だった。降車ボタンを押そうと北沢は横を見た。すると、そこには二つのボタンがついていた。そこには降車ボタンが一つだけついているはずだった。通学のため何十回、あるいは何百回とバスに乗っているが、ボタンが二つついていたことなど、ない。北沢は一瞬混乱しかけた。どちらを押せばいいのか、分からなくなりかけた。しかし落ち着いてよく見たら、押すべきボタンがどちらか、すぐに分かった。二つのボタンのうち一つは、普段押しているのと全く同じ四角い形の降車ボタンだった。その横に備え付けられたもう一つのボタンは、普段押している降車ボタンの形とは異なり、丸い形をしていた。丸い形のボタンの上には、「本物」と書かれたプレートが取り付けられていた。
「一瞬迷ったけど、ちゃんと親切に本物って書いてあってよかった。これなら分かりやすい」
一人そうつぶやくと、北沢は「本物」と書いてある丸いボタンを押した。バスの外、少し離れた所から大きな爆発音が聞こえた。そちらを見ると、もくもくと煙が上がっていた。
4 自動販売機にて
またしても、北沢の押したボタンは爆弾の起爆スイッチであった。爆発により、17名の尊い命が失われた。警察は、もはや北沢を白とは見ていなかった。黒に近い灰色という印象を持っていた。そのため北沢には厳しい取調べが行われたが、爆発物を仕掛けたことに関してはなんら証拠が無かったため、逮捕には至らなかった。
「ああ、神父様、神父様、どうか聞いてください。僕の犯した罪を。大きな過ちを。僕は取り返しのつかないとても大きな罪を犯してしまいました」
北沢悟は町外れのとある教会に来ていた。自分の罪を懺悔するために。北沢は信心深いわけでもなかったし、キリスト教徒でさえなかった。しかし、自分の犯した罪のために、心が押しつぶされてしまいそうだった。救いが欲しかった。神にもすがりたかったのだ。神父は言う。
「どうぞお話し下さい。神の御前で、全てを告白するのです」
神父の言葉を受け、北沢は思い出す。一年前の出来事を。
「はい・・・、神父様・・。あれは・・・、あれは一年前のことです・・・」
そして北沢は、一年前に犯した自身の罪のことを語り始めた。
2 エレベーターにて
北沢は早慶大学の文学部に所属していた。専攻は日本文学だった。その日北沢は、日本史の講義に出席するために大学に来ていた。大学の敷地内には9つの建物があり、それぞれに一号館、二号館~九号館という呼ばれ方をしている。日本史の講義は一号館の9階で実施されていたが、一号館は建物が古く、また大学の敷地内でも入り口から一番遠い所にあるため、北沢はそれをとても不満に思っていた。日本史の講義は不人気で受講者数も少ないため、こんな不便なところを使っているのだろうと、北沢は決め付けていた。普段どの講義でも早めに教室に行くことが習慣になっている北沢だったが、この日は特に早く一号館に着いていた。9階までは当然エレベーターを使う。その日もいつも通り、北沢はエレベーターのボタンを押した。カチ、カチ・・・カチカチカチ。エレベーターの呼び出しボタンを押す。しかし何度押してもエレベーターは6階に止まったまま降りてこなかった。冗談じゃない、と北沢は思った。階段で9階まで上がるなんて考えただけで疲れてしまう。とは言え、動かないものは動かない、諦めて階段を使うしかないのか、そう思った時、不意に後ろから、北沢は声をかけられた。
「すいません、そこのお兄さん」
北沢は振り返って声をかけた相手を見た。その男は(声で男と分かったのだが)全身黒ずくめのスーツに、黒いサングラス、マスク、帽子という格好だった。後から思い出せば怪しい格好だったと考えられるのだが、その時の北沢は特に気にするでもなく、何気なく応じた。
「はい?なんですか?」
「そこのエレベーターのボタン、故障していますよ」
「え・・・やっぱり壊れてるんですか・・・。さっきから何度押しても反応しないから、壊れてるんじゃないかとは思ったんですけど・・。はぁ・・・じゃあ階段使うしかないですね・・・」
北沢は肩を落とした。
「ああ、いえいえ、大丈夫ですよ。そこのボタンが直るまでの間の応急処置として、そちらの壁に臨時のエレベーター呼び出しボタンが取り付けられたんですよ」
男はそう言って、北沢から見て右側の壁を指差した。見ると、確かにボタンがあった。通常の呼び出しボタンの形とは違い、応急処置のそれらしく、丸い形をしたボタンだった。
「ああ、よかった!これで階段を使わないですみますよ!わざわざご親切にありがとうございます!」
「いえいえ、どういたしまして」
そうして挨拶をすませると、黒ずくめの男はその場を立ち去った。本当に助かった、そう思って北沢は臨時に備え付けられたという丸いボタンを押した。数秒後、けたたましい音の爆発音が鳴り響いた。
3 バスにて
その事件は爆弾テロの可能性もあるとして、マスコミでセンセーショナルに報道された。大学の近くに仕掛けられた爆弾によって、12名の人が命を落とすという悲劇的な事件だった。警察の調べによって、北沢の押したボタンが爆弾の起爆スイッチであるということが分かった。ただし、爆弾は大学敷地外に仕掛けられていたため、北沢自身は無傷で無事である。北沢は起爆スイッチを押した張本人なので、警察に事情聴取を受けた。警察に事情を聴かれたとは言え、あくまで参考人としてであり、容疑者としてではなかったし、当然逮捕もされてはいない。警察が北沢に抱いた印象も、白に近い印象であった。
しかし、学校内ではそういうわけにはいかない。起爆ボタンを押し、さらには警察に呼ばれたという噂は、すぐに校内を駆け巡った。その日から、周囲の人間がどことなく北沢を避けるようになった。日に日に、北沢は孤立していった。まるで容疑者扱いだった。
学校で孤立するようになった北沢は、日常生活を全て一人で過ごすようになった。授業への出席、学校での食事、学校の行き帰り、全て一人ぼっちだった。こんなことが起きる前までは、いつも友達とわいわい過ごしていたのに、今では自分の近くには誰も寄ってこない。もはや北沢にとって学校は苦痛でしかなかった。その日も全ての講義が終わると、一人で家路についた。
北沢は通学にバスを使っている。その日も普段どおり、帰りはバスを使った。
「次は目白川、目白川。お降りの方は降車ボタンでお知らせください」
いつも通りのバスのアナウンスが聞こえる。目白川は北沢が降りるバス停だった。降車ボタンを押そうと北沢は横を見た。すると、そこには二つのボタンがついていた。そこには降車ボタンが一つだけついているはずだった。通学のため何十回、あるいは何百回とバスに乗っているが、ボタンが二つついていたことなど、ない。北沢は一瞬混乱しかけた。どちらを押せばいいのか、分からなくなりかけた。しかし落ち着いてよく見たら、押すべきボタンがどちらか、すぐに分かった。二つのボタンのうち一つは、普段押しているのと全く同じ四角い形の降車ボタンだった。その横に備え付けられたもう一つのボタンは、普段押している降車ボタンの形とは異なり、丸い形をしていた。丸い形のボタンの上には、「本物」と書かれたプレートが取り付けられていた。
「一瞬迷ったけど、ちゃんと親切に本物って書いてあってよかった。これなら分かりやすい」
一人そうつぶやくと、北沢は「本物」と書いてある丸いボタンを押した。バスの外、少し離れた所から大きな爆発音が聞こえた。そちらを見ると、もくもくと煙が上がっていた。
4 自動販売機にて
またしても、北沢の押したボタンは爆弾の起爆スイッチであった。爆発により、17名の尊い命が失われた。警察は、もはや北沢を白とは見ていなかった。黒に近い灰色という印象を持っていた。そのため北沢には厳しい取調べが行われたが、爆発物を仕掛けたことに関してはなんら証拠が無かったため、逮捕には至らなかった。