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みのるくんとしずくちゃん

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冬の日の朝。
 張りつめた空気はどんよりとした雲の下いっぱいに敷き詰められ、わずかな風の入り込む隙間もありません。
そんな朝、ミノムシのみのるくんはいつものように味気ないコンクリートの塀にぶら下がり惰眠を貪っています。
その蓑には細かな霜がぽつぽつと張り付いていて、まるでさとこちゃんのお父さんの無精ひげみたいだな、とみのるくんは夢見心地に思いました。
 むにゃむにゃ。
 平和な日常です。
 しかし。
 それを打ち破る刺客がひとり。
「みいいいのおおおおおるうううううううううう」
 その甲高い声は少し離れたところから聞こえてきたかと思うと、一瞬でみのるくんの耳元まで近づいてきました。
そして次の瞬間、「ぶへっ」という情けない悲鳴とともにみのるくんは蓑ごと地面に放り出されました。
「いつまで寝てんのよ! 今日はあたしと一緒に新しい服の材料探しに行くって約束でしょ!」
 地面でごろごろ痛みにうめいているみのるくんを情け容赦なく問いただす彼女は、あけみちゃんです。
 あけみちゃんはみのるくんより少し高いところに居を構えるミノムシの女の子で、先程は糸にぶら下がって振り子運動のようにみのるくんに体当たりを仕掛けたのでした。
 彼女の伸縮自在の糸と鉄騎兵の鎧が如き頑丈さを誇る蓑から繰り出される強烈な体当たり攻撃は、この磯村家東塀界隈では知らぬ者のないほどで、彼女が「ターザンあけみ」との異名をとるのもそのためです。
 そんな代物を防御すらままならぬ状態で喰らったみのるくんがすぐにあけみちゃんの詰問に応じられるはずもありません。
「ちょ……待って……しぬってこれはしんじゃう」
「うるさい! はやく起きるのよ!」
「べ、別に僕が行く必要はないだろ……そもそも約束って、あれはほとんど脅迫に近いものだったぞ。君一人で行ってきたらいいじゃないか。いつもそうしてるだろ」
 あけみちゃんはこの言葉に一瞬口をつぐみましたが、すぐにこう切り返しました。
「何言ってんのよ! この季節に一人で森なんか行ったら、飢えた鳥に狙われるに決まってるじゃない! あたしはかよわい女の子なんだからね!」
 かよわい、ねぇ……君が言う言葉じゃないよそれは……。
 もちろん、そんなことを口に出すほど命知らずなみのるくんではありません。
「そうだね、そりゃそうだ」と彼はひとまず適当に相槌を打ち、「けれどさ、そんな風に言うってことは、あけみちゃんは僕のことを頼りになる奴だと思ってるってことかい?」と、冷静に手のひらを返しました。
 みのるくんは夏からの数カ月である程度あけみちゃんの性格を把握しています。あけみちゃんがこんな風に訊かれて、素直にみのるくんのことを認められるはずはないということも、すべて思慮の内です。
 予想通り、あけみちゃんは何も言えず口ごもってしまいました。
 僕の勝ちだな、さあもう一度、夢の続きを見るとするか……。
 みのるくんがそう思った、まさにその時でした。「頼りになる? はあ? 勘違いも甚だしいわね。身代わりに決まってるじゃない。のろまで反射神経の鈍いあんたがいれば、あたしの身の危険は減ることになるのよ」とあけみちゃんが冷たく言い放ちました。「必然的にね」
 みのるくんは意表を突かれたのと呆れたのとで何も言い返せません。
「ほら、行くわよ」
 あけみちゃんは糸を切って華麗に着地を果たすと、そう言いました。
 何か文句でもあるかしら?
 みのるくんには、見上げた彼女の薄く笑った口元に、そんな台詞が張り付いているように思えました。
 
 東塀を出発した二匹のとった進路は、西北。目指すは北塀を乗り越えたすぐそこに広がる森です。 
まだ歩き始めてから三十分ほどしか経っていませんが、みのるくんは早くもバテ始めています。
「あけみちゃん、やっぱり今日はやめにしない? 寒いし……きっと帰る頃には日が暮れてもっと気温が下がってるよ」
 情けない声を上げるみのるくん。
 しかし、あけみちゃんはちっとも速度を緩めません。
「無視ですか……虫だけに」
 ぼそっと呟いたみのるくんでしたが、いろんな意味で寒くなって、しぶしぶ口を閉じました。
磯村家の庭は親子三人暮らしの割にはなかなかに広く、虫たちにとってそこを越えて森へ行くというのは、ちょっとした旅行のようなものです。
さらにミノムシは本来冬眠したまま冬を越す生き物なので、蓑をまとっているとは言えども寒さには弱く、この時期に体を動かすということ自体が辛いことなのです。
 そのため彼らは皆秋までに衣替えを済ませ、万全の態勢で冬を迎えます。
 みのるくんとあけみちゃんにしてみても、それは例外ではありません。
 ただ、あけみちゃんだけは冬に入ってからもしばしば森へ新しい枝を探しに行っています。
 備えに問題があったわけではありません。
 彼女はただ単にお洒落に気を遣っているだけなのです。
 しかしもちろんそれは、彼女の強靭な肉体があってはじめて可能な行為なのであって、貧弱な一ミノムシに過ぎないみのるくんにも同じことを強いるのは酷というものです。
 ぜえぜえ息を切らしながら、みのるくんは必死に足を動かし、なんとかあけみちゃんについて行こうと試みます。
 しかし、彼がとうの昔に限界を越えていることは誰の目にも明らかでした。
 もうダメだ……くそっ、まさか自分がこんな形で最期を迎えるとは思っていなかった……無……念……。
 みのるくんが諦めて目を閉じかけたその時、
 大きな影が二匹の上に覆い被さりました。
「あ、みのるくんだ!」
 その無邪気な声の主は、磯村家の長女、小学4年生のさとこちゃんです。
 右手には昆虫図鑑を抱え、背にはつやつやした赤いランドセルを乗せ、頬にはあどけない笑みを浮かべ、左手に携えた虫めがねで二匹を覗き込んでいます。
 基本的に、虫の世界では小学生に発見されるということはすなわち死を意味します。キャッチアンドリリースを心がける物分りのいい子も中にはいますが、ほとんどの場合、虫たちは潰されたり足をもがれたり窮屈な籠の中に入れられたり標本にされたりと悲惨な目に遭うことになります。
 そんなわけで、自分たちを見下ろすさとこちゃんの笑顔を見て戦慄し動けなくなるというのがここでの二匹の正常な反応なのですが、彼らはどちらもそれとはまったく違った反応を示しました。
「助かった……」と胸を撫で下ろしたのはみのるくん。
「うざったいのが来たわね……」と舌打ちをしたのはあけみちゃんです。
 二匹がこのような反応をしたのは、さとこちゃんが顔なじみの存在で、虫好きかつ無害な少女であることを知っているからです。
 特にみのるくんはさとこちゃんと仲がよく、毎日登下校時にいろんな話を聞かされています。
 もちろん、ミノムシの声はさとこちゃんには届かないので、会話をすることはできないのですが、普段はぼーっとして表情の変化が少ないみのるくんが、さとこちゃんの話を聞くときは驚くほど嬉しそうな顔をすることを、あけみちゃんは知っています。
 あたしと話している時は常時寝ぼけまなこのくせに、あの子の前ではへらへらしちゃって……。
 あけみちゃんにとってはあまり好ましくない存在のようです。