われてもすえに…
【29】 父子
その頃、瀬川家の門の前には旅装の男が立っていた。
彼は頭の笠をとると、感慨深げに門を眺めた。
「やっと帰って来られた……。長かったな……」
彼が家を出たのは年の初め。
その時は厚着をして仕事に向かったが、今では薄着でないと汗が出てくる。
季節の移り変わりを実感し、長い間の留守を反省した。
それから彼は江戸から付いてきた荷物持ちの男に向かって言った。
「そなたもご苦労だった。今日は泊まって明日帰りなさい」
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
瀬川家当主、良武は門をくぐり、家の敷地に足を踏み入れた。
大きく息を吸い込み、久しぶりの我が家の空気を味わった。そして大きな声で帰宅を告げた。
「帰ったぞ!」
すると、玄関前を掃き掃除していた下男が気付いた。
「これは旦那様! お帰りなさいませ。しばらくお待ちを」
慌てた様子の下男が消えて少しすると、家中の下男下女が良武を出迎えた。
彼等は皆笑顔だった。
それに安心した良武は言った。
「達者だったか?」
「はい。旦那様こそ、無事の御帰宅でなにより」
「うん。……ん? 吉右衛門は?」
良武は彼の不在に気付いた。
吉右衛門は良武が子供のときからずっと居る男。一番信頼を置いている下男だった。
すると、彼の息子が出てきて言った。
「父は怪我を致しまして、部屋で寝込んでおります。出迎えができず、申し訳ございません」
「それはいかんな。すぐに見舞いに行こう」
屋敷に入り、足を下女に洗ってもらっていると奥から妻と娘が出迎えた。
初音も絢女も安心しきって、満面の笑みを浮かべていた。
「よくぞおもどりなさいました」
「父上、お帰りなさいませ」
女二人の優しい言葉に、良武はほっとし微笑み返した。
「心配掛けたな。もう留守にはしない。安心してくれ」
「はい」
良武は着替えを済ませた後、吉右衛門の見舞いに行った。
しばらく話をした後、吉右衛門へ隠居を勧めた。
力仕事をするのではなく、下男下女の相談役まとめ役に徹することとなった。
その後良武は居間で妻と娘と談笑した。
台所では下女たちが甲斐甲斐しく、祝のごちそう作りに励み、下男たちは主の荷物や藩主からの褒美の品を整理し始めた。
良武は娘に向かって言った。
「そうだ絢女、祝言の日取り確定したぞ」
「ありがとうございます」
「……やっと、嫁入りだ。瀧川が首を長くして待っておった」
「そうですか」
「小太郎にもちゃんと教えないとなぁ。……そういえば、小太郎は?」
「あら、そう言えば……」
妻が視線を泳がせ、怪しいそぶりを見せたことを良武は見逃さなかった。
「……どうした?」
「……その、小太郎はまだ帰っておりません」
初音はとっさにはぐらかした。
しかし、良武は追求はしなかった。
「そういえばそうか。こんな昼間は学問所だ。夕刻になれば帰ってくるな」
一人合点し、茶をすする彼をよそに初音は娘に目配せし、部屋の隅に移動した。
そして、こそこそ二人で話し始めた。
「……あの子、どこ行ったの? 屋敷には居るの?」
「……さっきお屋敷に行ったそうですよ。急用らしくて」
「……そう。戻って来て、姿があのままだったら、本当のこと言うから、貴女もそのつもりで」
「……父上、信じてくれますか?」
「信じさせるの。そうしないとあの子追い出されるわ」
少しすると小太郎は帰宅した。
喜一朗も一緒だった。
玄関で出迎えた母と姉に小太郎は元気よく告げた。
「ただいま戻りました。母上、喜一朗殿もお昼一緒に良い?」
しかし、彼女たちは他の事で頭がいっぱいだった。
「……はぁ。戻ってなかったわ」
「……ですね。仕方ありませんね」
その様子が小太郎は気にかかった。
「ねぇ、なんの話?」
「小太郎。父上が帰ってこられたの」
小太郎は喜ぶよりもまず、自身の姿が戻ってない事に小さな不安を抱いた。
「え? でも、俺元に戻ってない……。大きいままだ……」
「明日には戻るかもしれないわ。とにかく、隠れてるわけにはいかない。父上のところに行くわよ」
すると、喜一朗が血相を変えて初音に聞いた。
「あの、義父上がお戻りに?」
「はい。なにか?」
すると、喜一朗は小太郎の腕をつかみ玄関の外に引っ張りだした。
そして言った。
「……説教が待ってるぞ」
「あ。そう言えば……。江戸で追いかけられましたよね?」
「そうだ。絶対怒られる。どうする?」
「そうですね……。怒られるの嫌だな……」
二人で逃げようかと思った矢先、初音に叱られた。
「何やってるの。早くしなさい」
「はい……」
小姓二人組の足取りは重かった。
初音は平静を装い、夫に息子の帰宅を告げた。
「貴方、小太郎が帰ってきました。喜一朗さまもご一緒です」
「お、丁度いい。皆で昼餉にしよう」
そう言って、彼は久しぶりに会う息子と将来の娘婿を待った。
しかし、目の前に座り挨拶をしたのは若い男二人だった。
「お帰りなさい、父上」
「お帰りなさいませ、義父上」
良武はよくわからず、ぽかんとしていた。
喜一朗に『義父上』と呼ばれるのはわかったが、見ず知らずの男に『父』と言われる筋合いはない。
「……申し訳ないが、どなたでしたかな?」
「……やっぱり、俺がわからない?」
「少しお待ちを。ううん……」
目の前の小太郎を良武はじっと見て、考え始めた。
そして少しの空白ののち、声を上げた。
「そうだ! 若様のもう一人の小姓だ!」
その言葉に喜一朗は項垂れた。
怒られて萎む、情けない姿を絢女に見られたくなかったからだ。
さらに、彼の予想通り説教が始まった。
「丁度いい! 喜一朗も居る。二人一緒だ!」
みるみるうちに良武の顔は仕事の顔に変わって行った。
「その方ら、若様を連れ出し、江戸まで出向いて何をしておった! 手短に述べろ!」
「はっ。某……」
喜一朗が説明しようとしたとたん、小太郎が止めた。
「……喜一朗殿、私が説明します」
「……いいのか?」
「はい。これは私の責任ですから」
「なら、任せる」
そんなやり取りをした二人を見た良武は怒った。
「何をこそこそやっておる! 早く申せ!」
苛立っている父に向かい小太郎は行儀よく手をついた。
そして真面目に話し始めた。
「はっ。すべては私の責任でございます。喜一朗殿と殿には何の非も御座いません」
「では、申せ。お前がなぜ連れ出した。何を目的としたのだ?」
「殿の為を思い、江戸まで参りました」
「殿のため?」
「はい。将来の奥様になられる姫様に会いたいと仰せられたので、付き添いました」
「お前たち、姫に近づいたのか!? いったい何をしでかした!?」
「失礼ですが、父上は姫様とどのようなご関係ですか? 江戸でのお仕事は何だったのですか?」
「それは、だな……」
「そうです。義父上、教えてください」
若い男二人の思いがけない反撃に良武は言葉にうろたえた。