われてもすえに…
【24】 帰宅
小太郎は主に別れを告げた日の晩、念の為したためてあった文を主の部屋の机の上に残した後、城の書庫に泊めてもらい時間を潰した。
そして、ついに昼過ぎ城を後にし帰宅した。
家の門の前まで来て、小太郎は入るのに躊躇してしばらく突っ立っていた。
すると下男の吉右衛門が気付き、驚いたように寄って来た。
「若!?」
見られた小太郎は腹をくくり、一言だけ。
「今戻った……」
「さぁ、そんなところに立ってないで早く屋敷の中に」
笑顔で吉右衛門に迎えられ、小太郎は少しほっとしていた。
土間で埃を落とし、いろいろと世話を焼いてくれる下男に謝った。
「悪かった。長い間留守にして……」
「皆で心配したのですよ。お帰りは今か今かと」
「何も変わりはなかった?」
「はい。あ、いけませんね。奥様をお呼びしましょう」
小太郎はまだ心の準備ができていなかった。
長らく合っていなかった母に、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
「……呼ばなくていい」
しかし、下男は聞いてはおらず初音を呼びに行ってしまった。するとすぐに急ぎ足で彼女がやってきた。
「小太郎! やっと帰って来てくれた。寂しくなかった?」
久しぶりに聞く『小太郎』の呼び名。
家に帰ってきたと実感が湧き、ほっとした。
しかし、何を言っていいのか分からず俯いたままなにも発しなかった。
その様子を見て取った初音は小さく小太郎に言った。
「……母上の部屋に来なさい。いい?」
「はい」
初音のあとについていき小太郎は母の部屋でお茶をもらった。
温かい湯気で、小太郎の心も少し落ち着いた。
すると、それを見計らったかのように初音が口を開いた。
「……疲れたでしょう? ずっとお休みしてなかったから」
「……はい」
「小太郎」
初音が小太郎の目の前に座ったと思ったが、次の瞬間小太郎は、初音に抱き締められていた。
元服する前の晩以来一度もされなかった。
「……ごめんね。母上が悪かった」
「……母上?」
「仕事させて、放り出して、勉強も遊びも出来なくて。本当にごめんなさい」
母のぬくもりで、小太郎の中から今まで抑えつけ、無視しようとしてきた物が溢れ出した。
泣き声は歯を食いしばり我慢したが、涙は止めどなく流れた。
「会いたかった。帰って来たかった、でも……」
「何も言わなくていい。お帰り、小太郎」
初音は涙を流す息子を抱き締め続けた。
身体が大きく、思うようにすっぽり包みこむことができなかったが、精一杯ギュッと抱き締めた。
すこし、涙が収まったころ彼女は小太郎に言った。
「絢女は気にしないのよ。ちょっとイライラしてただけだけ、すぐに元の姉上に戻るから」
「……ほんと?」
「貴方の姉上よ。大丈夫だから」
「……だといいけど」
「さぁ、おなか減ったでしょ? 一緒に食べましょ」
「……はい」
その晩、小太郎は母と二人で夕餉をとった。
前の晩からろくに食事をとっていなかった小太郎はご飯を何度もお代わりし、初音に笑われた。
お腹も満たされ、やっと自身も笑えるようになった小太郎はその晩母と同じ部屋で眠りについた。
次の日の夕方、小太郎は初音から仕事を任された。
それは姉と弟の関係を元に戻す治療も兼ねていたものだった。
「絢女をお花の先生の御宅に迎えに行ってくれない?」
「……えっ。俺じゃないとダメなの?」
「……通り魔が出てね。武家の女を狙ってるらしくて、危ないから迎えに行ってくれない? 」
「……はい」
「仁助も付けるから、心配しないで」
小太郎は下男とともに姉を迎えに出かけた。
念のためにと大小をつけ、武装はしっかり。
仁助に立派になったと感心され、恥ずかしかったが仲良く話しながら歩いて行った。
「……なんで来たの? 仁助の仕事でしょ?」
迎えに行った絢女は、ひきつった顔をしていた。
「……奥様の命なので」
「そう……」
わかっていた展開だったが、再び小太郎は落ち込んだ。
笑顔を見せてはくれない、ましてや顔も見てくれない姉に小太郎は悲しくなった。
そんな状態で『姉上』などと呼べはしない。
黙ったまま、立ち尽くした。
そんな姉弟の様子など考えず絢女の友人たちは小太郎を見て騒ぎ始めた。
「……あの方誰? 格好良いわね」
「わたし見たことあるわ。瀧川さまと一緒に居るところ」
「背が高くて、かっこいい! 絢女、知り合いなら紹介して」
彼女たちの戯言に絢女は付き合いたくはなかった。一刻もはやく家に帰りたくてたまらなかった。
「知らない! また明日ね!」
「なに怒ってるの?」
絢女は友も弟も下男も振り切り、一人で帰ろうとした。
すかさず仁助は追いかけた。
「お嬢様! お待ちください! 良鷹様、行きますよ」
「あ、今行く」
小太郎は一定の距離を置いて姉と下男について行った。
誰も気づかなかったが、絢女の姿をじっと見つめる眼があった。
身形こそ普通の武士だが、頭には笠が。
やつれてこけた顔、役人に見られてはいけない顔を隠すためだった。
男は、腰につけていた刀の鯉口を切った後ぼそりとつぶやいた。
「……やっと見つけた」
男は、怪しく眼を輝かせたが見回りをする役人たちの騒がしい声に驚き、そっとその場を立ち去った。
遡ることその日の朝、喜一朗は休みを終え出仕した。
身支度をするために入った小姓部屋ですぐに異変を感じた。
同僚の荷物がすべてなくなっていたからだ。
机の上の置き手紙には一言『今までお世話になりました』とだけあった。
急いで主に事の次第を聞きに向かった。
その政信は脇息にもたれ、ぼんやり部屋の隅を眺めていた。
彼の傍の畳の上に、文が投げ出されていた。
「殿、良鷹は? くびにしたのですか?」
「……違う。勝手に出てった」
「え?」
そうすると、政信は脇息に肘をつき、頭を抱えて弱弱しくつぶやいた。
「……何でだ? どうしてだ? 俺が怒鳴ったせいか?」
そんな主を前に、喜一朗は動揺せず穏やかに言った。
「殿、詳しいことをお聞かせ下さい」
「……いきなり小姓を辞めたいと言って来たんだ。その文は辞表だ」
喜一朗はそれを拾って読んだ。
字こそ綺麗なものだったが、ところどころ稚拙な文章が見受けられる辞表。
初めて見る同僚の文に、何度目かわからない小さな疑問が頭をもたげた。
「辞職の理由は?」
文には一切書き記してはいなかった。
「よく分からないんだ。ただ、妙なことを言っていた」
「なんと?」
「自分は十になったばかりの子どもだ、字は小太郎だって」
「えっ?」
喜一朗はとんでもない事実を聞いた気がした。
念のために、同僚の字を主に確認した。
「……殿、良鷹の字はなんと?」
「小さい太郎で、小太郎だとさ」
「……瀬川小太郎良鷹。小太郎、良鷹。小太郎!」
喜一朗の中で、先ほどの動揺、今まで感じた『良鷹』に対する疑問、違和感、不思議の原因がすべてある答えにつながった。
同僚、瀬川良鷹は後輩、瀬川小太郎と同一人物。